決断力という点で見ると、朝鮮出兵が大きなマイナスですね。国内が飽和状態で、部下に分配する領地がなくなったから朝鮮へ行った――と言われていますが、家康を潰せば、関東地方の領地が全部手に入っていたはずです。それに関しては、力を注ぐ場所を間違えたのでは、としか思えませんね。

徳川家康 努力家で勉強家で堅実だけどロマンも華もない

家康の比類なき決断といえば、「政権を東で維持しよう」と考えたことでしょう。関ヶ原のあと、伏見や大阪界隈に政権をつくるというのが普通の発想です。それが東北・関東も貧しかった時代、江戸に中心地を持っていった。誰にもない先見性を持っていたと言えます。

家康は努力家なんですよね。勉強家で、剣の達人でもある。そして政治家としては、非常に我慢強い。信長からひどい目にあわせられながらも、同盟を破棄しませんでした。その姿勢が信用を蓄積して、天下人へ押し上げられていったわけです。戦い方も堅実。ひたすら守りに徹して、相手の失策を待つ。コツコツとやるべきことをやり、部下にも裏切られません。

という称賛の裏返しになりますが、家康はとにかく地味で、面白味がありません。少数の兵で大逆転したような軍事の逸話もないし、女性関係も地味。熟女好きかと思いきや、子供がたくさんできたら急変して、若い側室をたくさんもらいました。身も蓋もないというか、ロマンを感じませんねえ。信長や秀吉にあるような華がないんですよ。

家康は安心して暮らせる社会をつくり、日本の国力もあがりました。ただその地味さが、堅実すぎてつまらない社会の礎を築いた感もあります。

今川義元 「バカ殿」は誤解! 本当は先見性を持っていた

桶狭間の戦いで信長に敗れたため、義元は「バカ殿」「ボンクラ」として扱われがちです。しかし、立派な殿様だったと僕は評価しています。戦には負けるべくして負ける戦いと、何があってもおかしくない戦いの2種類があって、桶狭間は後者でした。義元はあの敗死さえなければ、信長の引き立て役では終わらなかったんじゃないでしょうか。

たとえば、甲相駿三国同盟の締結です。海が欲しくて駿河国に攻め込みたい武田信玄、駿河国の東部を奪い合っていた北条氏康。緊張関係のあるなか、同盟を結んで攻められないようにすると、西に向かって領土を拡大していきました。さらに信長の妨害を受けながらも、三河国を今川家の支配下に置き、松平元康(徳川家康)を今川の武将として位置づけてもいます。

それに父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」を、義元はさらに補完して、「京の権威の力を借りず、今川家独自の力で領国を治める」という“独立宣言”までしているんですよ。沼津港の船のことまで義元は指示を出していた、と書かれた古文書も残っていて、その先進性、視野の広さはあなどれません。スケールとスピード感に欠けるきらいはありますが、もう少し評価が上がってもいいように思います。