「これで、俺の講義は終わりだ。あとの判断は、経営者であるおまえに任せる」

「……ありがとうございました」

「おいおい、強盗に『ありがとう』はないだろ」

男は、初めて飯島に優しそうな笑顔を見せた。

「いえ、おかげで会計の重要性がよくわかりました。この銀座のお店は、今月末で撤退して、また地方の小さなお店から出直そうと思います」

「嫁さんには、なんて言うんだ?」

男が心配そうに話しかけると、飯島は、縛られていた手首と足首を撫でながら、ゆっくりと答えた。

「嫁さんには……今日、家に帰ってから、面と向かってじっくり話してみます。考えてみたら、ここまで苦労はたくさんかけてきたんで、今さら、こんな相談をしても、夫婦の今までの人生の評価が、変わるわけないですよ」

「信頼しているんだな」

「どうのこうの言いながら、連れ添って長いんです。それに、今回、また田舎に逆戻りですけど、今度は会計をしっかり勉強してから、この銀座に戻ってきます。そのくらいの根性でやらないと、男としてカッコ悪いですからね」

「ふん、また見栄っ張りなことを言ってるな」

男が投げやりな口調でそう言うと、飯島は、少し顔を赤らめながら答えた。

「たぶん、見栄っ張りなところは治らないと思います。嫁さんに……俺と駆け落ちしたことだけは、後悔してほしくないですからね。死ぬ前に『この男と結婚してよかった』って、一度は思ってもらわないと気が済みませんよ」

「まぁ、そういう意気込みがあるんだったら、閉店のあとは、裏口の施錠をちゃんと確認してから作業に入ることだな。お店が儲かる前に、強盗に殺されちまうぞ」

男はそう言うと、裏口の扉に向かって、ゆっくりと歩き出した。飯島が頭を下げて、もう一度「ありがとうございました」と大きな声で叫ぶと、男は「会計を教えてやったんだから、警察には通報するなよ」と言って、後ろを振り向かず、片手を左右に大きく振って、裏口から出て行った。

男が店の外に出ると、東の空が、薄ら明るくなっていた。そのとき、ポケットの携帯電話が鳴った。

「ああ、今、終わったよ。旦那には、会計をじっくり教えてやったよ。あんたの依頼どおり、銀座のお店は撤退して、いちから出直すってさ。それにしても、頑固な旦那だったな。説得するのも、ひと苦労だったよ。強盗の格好でもしながら乗り込まなければ、たぶん、話すら聞かなかっただろうな。まぁ、俺があんたの『大金持ちの元婚約者』だって知ったら、なおさら話は聞かないだろうけどね。あっ、お礼はいらないぞ。元婚約者として、どんな奴と駆け落ちしたのか、一度は見てみたかっただけだからさ。悔しいけど、あんた、たぶんあの男と駆け落ちして正解だよ。えっ、なんでだって? そりゃあ、今日、帰ってきた旦那と話をすれば、わかるはずだよ」

男はそう言うと、携帯電話を片手に、もう一度、タバコの煙を大きく吸い込んで、空に向かって煙を吹き出した。

(構成=斉藤栄一郎 撮影=市来朋久 撮影協力=モナムール清風堂(東京都府中市))