保育園通いをしていた20年前、「母性神話」に苦しんだ

「おかあさんたちは実に一生懸命でした」という理事長の言葉が私に魔法をかけた。

帰りがけに保育園の生い立ちを尋ねたところ、昭和の時代に中洲のホステスを支える夜間託児所から出発したとの説明に続いて、中洲でホステスをしながら子どもを育てる母たちを、理事長はこんな言葉で芯から肯定したのだ。夜間託児所だった当時、70人ほどの保護者のほとんどがシングルの母親だったという。

撮影=三宅 玲子
どろんこ保育園は夜間でも灯りが消えない。

私の娘ふたりはすでに成人したが、彼女たちの手を引いて保育園通いをしていた20年ほど前、世の中は「母性神話」に浸りきっていた。私はそれにずいぶん苦しんだ。

まして、昼間の保育園でさえ幼稚園に比べて下に見られていた昭和の時代、夜、子どもを預けて働く母たちの葛藤はどれほどだったかと思った。そんな母親たちを認める保育園に憧れた。

ところが、取材を始めてみると、夜間託児所の頃にはホステスの子どもが70人も通っていたのに、ホステスの子どもは2人になっていた。これは想定外だった。

親のために、週末は理事長が自宅に子どもを連れ帰る

中洲には小さな子どもを育てる母が400人とも500人ともいるといわれる。だが、その子どもたちの多くはベビーホテルで夜を過ごしていることがわかった。ベビーホテルは認可外保育施設のため、夜間保育園と違って補助金がなく、保育士を雇用せずとも罰則はない。

それでもベビーホテルを利用する親たちは夜間保育園という仕組みを知らないため、入園申請をしない。その結果、夜、親のいない子どもたちは「待機児童」にすらカウントされていない。そうした保育格差に愕然がくぜんとした。

それではどろんこ保育園は何をしていたのか。ただ手をこまねいていたわけではない。ひっきりなしに現れる気がかりな親子に、私たちの常識を超えた支援をしていた。

撮影=三宅 玲子
どろんこ保育園でのお昼寝の様子

たとえば、親子関係にストレスのかかっている家庭があると、親がゆっくりする時間を取れるように、週末は理事長が自宅に子どもを連れ帰っていた。それには伏線がある。自殺した母親を支えきれなかった後悔から20年前には自宅で里親も始めていたのである。6人の里子たちが暮らす家に園児が1人や2人紛れ込んでも大差はないということなのか。

また、ホステスとレストランのダブルワークで疲れ切った母親がネグレクト気味だと察すると、保育士たちが交代で自宅に迎えに行った。

制度の境目に立ったこうした支援は、社会的養護寸前のところで日々をしのぐ親にとって、子どもとの暮らしを守る防波堤となっていた。