“意識高い系”は見栄と虚栄心の塊

原田眞人監督の映画『クライマーズ・ハイ』で、汗だくで泥まみれになった新聞記者が航空機事故現場から予備原稿を、本社に電話して一文字ずつ発声して送信する場面がある。映画の舞台は1980年代なので、Wi-Fiは存在せず、家庭用ファクスも未普及だったから、情報を伝達するのは原稿を直接電話口で読み上げるしかない。要するにこれこそ「出先で仕事をする人」=ノマドそのものである。が、安藤の言うノマドは、汗臭い新聞記者の出先での仕事を指すのではない。

あくまで東京都内の、空調の効いたカフェ=スタバで、そして洗練されたスタイルで、いかに颯爽とマックブックを操作するか、それこそが要諦とされている。つまり、安藤の言うノマドワーカーとは、その作業・仕事の中身というよりも、外形的なものがすべてであり、逆説的に言えばスタバでマックブックを広げて何かやってさえいれば、それはノマドと定義される。

よって安藤のノマドに影響されてスタバを第一等の「ノマドワーキングスペース」と信じている多くの人々は、作業効率というものはまったく関係がない。だって何しろ「何でもいいからスタバでマックブックを広げていじっている」外形こそが重要なのだからである。ここにある種の強烈な自意識が介入する。

スタバという、ちょっと高級で、おしゃれな空間で、時代の最先端機器であるところのマックブックを広げて仕事をしている私、俺ってなんて都市的で洗練されているのだろう――。まさにこういった、中途半端な連中(これを筆者は意識高い系と定義する)の自意識をくすぐるのがノマドだ。

単に「出先で仕事をする人」という、IT化以前から存在した普遍的な労働の形態をわざわざノマドと言い換えると、一等自意識を付与された人々の終着点となる。つまり見栄、虚栄心の進化系である。見栄や虚栄心は、生産効率を著しく下げる。過剰な梱包や過接客、豪壮な内外装へのこだわりが商品原価を増大させ、純利益を圧迫する構造と似ている。仕事効率を高めるのと、スタバでマックブックを広げて作業をするのには何ら有意な相関関係はない。

繰り返すように、スタバはそもそも、「作業や仕事」をするための構造を有していないからである。スタバは珈琲店として出発して世界に拡大したのであって、仕事場所としてその地位を確立したのではない。当たり前のことだが、オフィスで作業するほうがすべてにおいて効率がいい。スタバにWi-Fiは飛んでいるかもしれないが、複合コピー機や会議室はない。