当時のブラジルは翌年のサッカー・ワールドカップ、その2年後のオリンピックの開催利権が、経済格差をより深刻なものにしていたのだ。リオからローマに戻る機内でも、ジャーナリストから同性愛者についての意見をたずねられ、自分にはそんなことをどうこういう権威などない、みな兄弟だ、という趣旨の答えをし、女性の役割の重要性もコメントしている。

このような忌憚きたんなき言葉は、エスタブリッシュメントとしてのカトリック保守派からは当然歓迎されなかった。

前任者たちが成しえなかった「聖域なき改革」に手をつけたフランシスコは、実際、アメリカ最大のスポンサーであるコロンブス騎士会のジェブ・ブッシュなどをはっきり敵に回してしまった。フランシスコが選出されたことにはアメリカの民主党が関わっていたという陰謀論も生まれたほどだ。

共感、福音による教会改革

それは日本のようにキリスト教がマイノリティである国と似ていなくもない。日本のカトリックの中には、「ミッションスクール出身のお嬢さま」が上流の男性と結婚した後、ブルジョワ教区の教会に通って社交に励んでいるというケースがある。そんな教区では「社会派」の司祭の話などはもちろん歓迎されないし、教会に政治を持ち込むなとも批判される。

カトリック文化圏の国でも、カトリックがブルジョアや貴族のアイデンティティとなっている教区は少なくない。それなのに、カトリックのトップに立つ法王が、信徒に向けて、「教会を出ろ、辺境に行け、無関心の地に行け、政治を変え、社会を変えろ」と言いはじめた。それを一種のスキャンダルであるかのように受け止めた人々がいるのは無理もなかった。

だからと言ってフランシスコがいわゆる「革新」というわけではない。就任後、司祭の結婚を許可しろとか修道女の叙階を認めろなどという山のような手紙を受け取ったが、そんなことは本質的な問題ではない、と言い切っている。

今や時代に合わない教会の設計思想を改革することは必要だが、それはより人間的な共感の精神、福音に拠るものでなくてはならない。現代社会に合わせて宗教をイデオロギー化することでもないし、「主との出会い」という超越を捨てた「自己啓発」のツールにするのでもない、と言っている。

人気を増大させた「言行一致」

実は、2人の前法王たちも同じことを言っていた。フランシスコの特徴は、同じことを実践して見せるところだ。リオへの往復では左手に膨れた黒い書類カバンをしっかりつかんで飛行機に乗った。一国の「元首」の公式旅行では絶対に見られない図だ。そのことをジャーナリストに指摘されて、「私はいつも旅行の時に自分のカバンを持っていた。普通です。普通じゃなきゃだめですよ!」と答えた。