大ベテラン記者の切り札と配慮

“警察にいる者”を聞けば、逮捕者の名前を漏らすことになる。しかし、逮捕されなかった少年の確認なら、捜査情報の漏洩にはならない。大ベテラン佐々木記者ならではの、巧妙な切り札であり、相手への配慮だ。

捜査員は「わかった」とさえ言わなかったが、佐々木さんは構わず、順番に名前を挙げていった。

1人目……反応はない。2人目……捜査員は、小さくうなずく。3人目……反応はない。

「もう一度繰り返します」

佐々木さんは慎重に、同じ順番で名前を挙げていった。捜査幹部は最初と同じく、2人目の名前にだけ小さくうなずいた。逮捕された少年は、1人目と3人目だった。それは佐々木さんの熱意と誠意が、捜査幹部の正義感を突き動かした瞬間だった。

佐々木さんは捜査員の家を出ると、急いで公衆電話を探し、私に報告したのだ。

ところが、いつまでたっても編集部に戻ってこない。

名うてのグルメだから、さてはいい気分になって旨いものをさかなに一杯やっているのかなと思ったが、とんでもない。『週刊文春』の誇る名物記者は、私が思っていた以上にプロフェッショナルだった。深夜零時近くなって編集部に上がってきた佐々木さんは、開口一番、

「松井さん、ごめんなさい」

と頭を下げた。

2つの宿題

「ぼくには、頼まれた宿題が2つあったよね。逮捕された4人の名前の特定と、被害者のお父さんのコメントを取ってくること。

2つ目の宿題がまだできていなかったから、ぼくは捜査員の家を出たあと、八潮市の女子高生の自宅に行ったのよ。あの家には何度も行っていて、いつもは新聞記者やテレビ局のレポーターがたくさん張り込んでいるのに、今夜は時間も遅いせいか、誰もいなくて真っ暗だった。『ああ、みんな引き揚げたんだ』と思って、呼び鈴を押そうかどうしようかと迷っていたら、急に門灯が点いた。そして、お父さんらしき人が、手にほうきを持って出てきたんだ。

松井 清人『異端者たちが時代をつくる』プレジデント社

張り込んでいた記者たちのタバコの吸い殻なんかが、門の前に散らかっていたのかもしれない。それを黙って掃き始めたお父さんを見たら、ものすごい怒りと絶望と悲しみが、体中からにじみ出てくるようだった。ぼくは、ついに声をかけられなかったんだ。家に入っていくお父さんの背中を追って、呼び鈴を押すこともできなかった。30数年も記者をやってきたけど、こんなことは初めて。本当にごめんなさい」

私はひと言、

「それでよかったと思います。もう充分ですよ」

とだけ答えた。

実名報道に踏み切るかどうかという花田さんの最後の決断を、佐々木さんがじっと待っていたのは、こういう経緯があったからだ。「これで、被害者とお父さんが少しは浮かばれるよ」と言った佐々木さんの脳裏には、その夜の父親の背中が思い起こされていたのだろう。

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