「政治行政は介入するな」と憤る者は芸術を名乗るヘイトを許せるのか?

今回の騒動では、案の定、「芸術や表現の自由に政治行政が介入すべきではない!」と主張する人たちが多かった。

これは、政治行政をとかく批判する人たちによくあるいつものパターンである。

「検閲」という言葉を用いる人まで出てきたが、そのような人は「検閲」というものについてきちんと勉強した方がいい。検閲とは「行政権が、表現物の内容を事前に審査して、一般的・網羅的に発表を禁止すること」であって、今回の件は、問題の展示物をあいちトリエンナーレでは展示しないというだけで、他の場所での展示まで禁じたわけではない。

税金が使われていない他の会場では展示できる余地があるので、これは検閲ではない。しかもいったん発表した後の「事後的な」制約なので、この点でも検閲ではない。

日頃、自由などを強調する人たちは、政治行政が芸術作品などに口を出すことを非常に嫌がる。そしてすぐに「芸術の自由」「表現の自由」を持ち出す。

ところが、芸術作品に政治行政は介入するな! 表現の自由を侵害するな! と叫ぶ人たちは、逆に、ある表現については、ヘイトスピーチだ! 女性蔑視だ! 人種差別だ! 政治行政は介入しろ! 規制しろ! と騒ぐ者が多い。

結局、自分たちの好む表現、自分たちが許容できる表現については、「政治行政は介入するな!」と主張し、自分たちが許容できない表現については、「政治行政は介入しろ!」と言うんだ。

これは、典型的なご都合主義。

(略)

芸術も表現も、場合によってはヘイトにもなるし、女性蔑視にもなるし、人種差別にもなる。個人の人格攻撃にもなる。このような芸術や表現が許されないことは論を待たない。

つまり、芸術や表現は完全なる自由ではなく、やはり制約を受ける。

もし芸術であれば何でも許されるというのであれば、芸術を名乗るヘイトや女性蔑視や人種差別が許されるというのだろうか?

公の美術館や事業で、ヘイトや女性蔑視、人種差別、セクハラ的な芸術作品が展示されたらどうなるのか?

おそらく中止の声が上がるだろう。

普段はこのような表現について血相を変えて、「こんな表現を許すな!」「政治行政はきちんと規制しろ!」と言っている人たちに限って、今回、抽象的な芸術の自由・表現の自由を持ち出して、「政治行政は口出しするな!」と叫ぶ。

結局、抽象的な芸術の自由や表現の自由を振りかざすだけではご都合主義に陥る。芸術であろうと表現であろうと、完全なる自由はない。一定の制約を受ける。そして、この自由と制約のライン、つまりアウトとセーフのラインを「具体的に」考え、それを設定することが、今回のようなチャレンジ的なイベントをやるときの「実行力」の柱だ。この実行力がないまま、このようなイベントをやってしまうと、津田さんのようになってしまう。

(略)

ところが、アウトかセーフかのラインを明確に引いて、絶対的に正しい判定ができる者など、まず存在しない。

だからこそ、プロセス・手続きが重要なんだ。