ここで考えておきたいのは、果たしてその食べ物は「日本食」なのか? ということである。お好み焼きは諸説あるらしいので置いておくとして、少なくともカレーはインド、ラーメンは中国が発祥であることは間違いない。にもかかわらず、日本で食されているのは、本場のそれとはまったく別物だ。

ラーメンを例にとってみよう。ラーメンの発祥が中国であることは誰もが知るところだが、日本のラーメン好きが「本場はさぞおいしいのだろう」と期待に胸を膨らませて中国へ行っても、ある意味でがっかりすることになる。スープは薄味、麺は柔らか、見慣れない牛肉などの具材。これが本場のラーメンなのだが、日本人の多くはそれを「ラーメンではない何か」と感じるのではないだろうか。

そもそも、両者の食べ方にも大きな違いがある。中国では、食事の最後に小さな椀に入った汁そばを食べる習慣はあるが、ラーメン一杯を食事のメインディッシュにするような食べ方はしない。

この食べ方の決定的な差は、必然的にラーメンそのものにも大きな違いを生む。広大な中国大陸には多種多様な麺料理が存在するが、日本のラーメンはそのどれにも当てはまらないオリジナリティを持ち合わせているし、地域色も豊かだ。札幌ラーメン、熊本ラーメン、喜多方ラーメンといった各地の多彩なラーメン文化には、中国人でさえも驚くらしい。

独自性を保ちつつ多様な異文化を吸収

カレーにおいてもそれは同じで、日本式「カレーライス」はインドのどこへ行ってもお目にかかれない。さらにいえば日本食だけではなく、アメリカ発祥のセブン・イレブンや、中国発祥だが日本で独自の変化を遂げた漢字にも、同じような現象が起きたと考えられるだろう。他国で生まれたものを受け入れ、それにさらなるオリジナリティを加えて“自国式”にしてしまうことにおいて、日本の右に出る国はないのではないだろうか。

こうした日本の側面に関しては、ジャーナリスト・高野孟さんの日本文化論が興味深い。その著書『最新世界地図の読み方』(講談社現代新書)において高野さんは、ユーラシア大陸の地図を90度回転させると、それはパチンコ台によく似ているかたちになる、という。そのいちばん下に位置する日本は、その国のかたちからしても、パチンコ台の受け皿に当たるのだ。

あらゆる文化は“パチンコ玉”のごとく、一番上に位置するローマをスタートし、シルクロードを通って、中国、朝鮮半島を経たあと、最後に日本に落ちてくる。島国である日本は、その実、世界のあらゆる文化の坩堝(るつぼ)だったということだ。島国特有の独自性を保ちながら、パチンコ台の受け皿に由来するような多様性ももっている。そうした日本の面白さが、現代のラーメンやカレーライスに表れている気がするのだ。