芸人・明石家さんまは、40年近くバラエティの最前線で活躍し続けている。常に笑いに貪欲な姿勢は、どこから生まれたのか。ライターの戸部田誠さんは、「若い頃からさんまは生き急いでいた。それがさらに加速したのは、92年の離婚と借金がきっかけだ」と分析する――。

※本稿は、戸部田誠『売れるには理由がある』(太田出版)の一部を再編集したものです。

プロ野球・西武戦の試合前に、お笑いタレントの明石家さんまさん(左)と、記念撮影に納まる日本ハムの清宮幸太郎選手=2018年10月3日、札幌ドーム(写真=時事通信フォト)

話し相手さえいれば笑いを起こせる男

間が抜けた軽快な音楽がなると、スタジオの中央には丸テーブルを挟んで、明石家さんまとタモリが立っている。ふたりは、すぐに即興で話し始める。

「俺が遅刻多いんで、『俺が近道を教えてあげる』って、一緒に行って警察に捕まったの覚えてるでしょ?」

何度となく話した鉄板話を淀みなく話し始めるさんま。

「あんただけはとんでもなくひどい男だと思ったわ」

そう言いながら、時に脱線しながら、時に簡潔に、時にボケながら、話のディテールを語っていく。

車の免許をとって間もなくの頃、タモリがさんまにスタジオアルタまでの近道を教えてあげようと、ある日、さんまの車にタモリが同乗し、アルタに向かった。すると、環七通りを走っているとき。車線変更をした際に、警察に止められてしまった。

「しもたーって。でもさんまとタモリを警察の人も知ってはるから。『すみまへん、「いいとも!」に間に合いまへんねん。急がなあかんから勘弁してくれませんか?』ってタモリさんに『ねえ?』って言ったら『別に。まだ大丈夫だよ』って」

タモリが突っ伏して笑い、場内も爆笑に包まれる。

明石家さんまにかかれば、セットなど丸テーブルひとつで十分だ。いや、それすらいらない。話し相手さえいればいい。それが先輩芸人、同期、後輩でも誰でもいい。俳優や歌手、子役はおろか素人でも構わない。相手がひとりでもいれば、さんまが相手の話を引き出しながら、どんな話題だろうが、それを全部自分の話に持っていき、笑いに変えていく。ボケ・ツッコミも自在。それが、明石家さんまの「雑談」芸だ。

“戦場”は高座ではなく楽屋だった

「センスよろしいから」

1974年、笑福亭松之助に弟子入りしたさんまは、師匠から「なぜ自分を選んだのか」という問いに不遜にもそう答えた。そんなさんまを松之介はオモロイ奴と懐深く受け入れた。落語家としては実力を発揮しきれずにいたさんまの“戦場”は、楽屋だった。ほぼ同期の島田紳助やオール巨人や先輩の笑福亭鶴瓶らと、どんな面白い雑談をするかが毎日勝負だった。