孤独とはそもそも悪いことなのか?
孤独死や高齢者の一人暮らしが増えている日本では、孤独に生きることが大きな問題となっています。しかし僕は「孤独とはそもそも悪いことなのか」と根本に立ち戻って考えることが必要だろうと思っています。まず前提として「孤立」と「孤独」は違います。日本では、家族を持たずに1人で自立して生きている人を可哀想と見なす傾向がありますが、それは孤立ではありません。他者との協力関係を一切持たない状態が孤立であるのに対して、孤独であっても、周囲と良好な協力関係を結びながら、充実した人生を送っている人はたくさんいます。僕はむしろ、そのような「個」が屹立した生き方の人が増えることこそ、今後の日本に必要ではないかと思うのです。
孤独な生き方を可哀想と見なす日本人の心性は、この国の社会システムが古来「家」を基本単位としてきたことによって育まれたと感じます。国や公的な制度が提供するセーフティネットより、血でつながった家に属することのほうが安心で信頼できる。家に属する身内は手厚く面倒を見るけれど、そうでない人間に対しては冷たい。それはいわば「家単位」のリバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由を最大価値とする生き方)ともいえるわけですが、そこには二重の問題があります。
1つは高齢者や子供、シングルマザーなど社会的な弱者のケアを担う主力が家になることで、公共的・社会的な「人助けの意識」が定着せず、真剣にその必要性の議論もなされないことです。実際、ネット上で頻繁に起こる弱者叩きの炎上騒ぎを見れば、「家の外の他人」に対する日本人の冷たさは明らかです。弱者救済や隣人愛を教義の根本に持つキリスト・イスラム教圏の国々とは、その点で大きく異なります。
ヒントは「穏当なアナーキズム」
もう1つの問題は、「家に守られることにより、真の個人主義も確立できないこと」です。家や親族のしがらみによって、自分自身の生き方を自由に選択できない。田舎でちょっと目立ったことをすると、すぐに近所中で噂になる。こうした家がもたらす不自由さ、息苦しさは、この国で珍しい話ではありません。