1968年の横浜イメージは「暴力の町」

筆者は神奈川県出身だが、出身地の話をすると「神奈川県といえば横浜。あそこはおしゃれでいいところだ」と相手から返答をもらうことが少なくない。テレビや雑誌などでもこうしたイメージで取り上げられることも非常に多く、こうしたイメージはまちへの憧れを生み出し、「住みたいまち」につながりやすい。

しかし、横浜のこうしたイメージは比較的最近のものだ。1968年に横浜市は「横浜に対する意識調査」を実施した。全国の中学校・高校120校に通う6000人を対象に横浜の認知度とイメージを尋ねたものだ。認知度は98%と非常に高く、半数は修学旅行で来ていた。また教科書やテレビで横浜を知る人も多かったようだ。そして「どんなところか」という質問に対しては「港の町」(1位・87.3%)や「工業の町」(4位・25.9%)といった項目に続いて「暴力の町」が5位に入り14.1%であった。実は1950年代の横浜は麻薬や暴力が横行しているまちだった。横浜市史資料室『市史通信(第24号)』によれば、1960年には麻薬の使用・所持などで検挙された人数は県内で703人と、全国の検挙数の2割を超えていた。

では、そんな「暗い」イメージから現在の明るいイメージへの転換はなぜ起こったのだろうか。ひとつは「異国情緒のある港町」として流行歌で横浜が多く使われたこと、そして横浜市が積極的に「異国情緒あふれ」、「開港の場」にもなった「港町」としての都市イメージを保存して見せるようにし、さらに市の施策で生まれた「おしゃれ」な風景がドラマなどで使われてきたことが大きい。

行政が演出した「異国情緒のあるおしゃれな港町」

都市運営が顕著になったきっかけは1963年に飛鳥田一雄氏が横浜市長に就任したことだ。1968年には、縦割り行政の部署間をつなぎ、広い視野をもって都市づくりを行うために「企画調整室」(発足当初は「企画調整部」)が設置された。「港町」としての横浜のイメージを強化するため、山手地区における景観保全、山下公園周辺エリアに代表される都市景観づくり、港町横浜らしい近代建築の保全などを行った。

そうした取り組みと共に生まれたのが「横浜市六大事業」だ。都市中心部の強化と都市の骨格作りを目的としたものだった。その1つに「みなとみらい21計画」がある。三菱重工業の造船所を横浜郊外の金沢区につくる埋めたて地に移し、その跡地や追加で埋め立てた土地を開発するという計画だ。

古くからの市街地であった関内エリアと横浜駅周辺の中間に位置し、双方をつなぐ新しいまちとして企図され、1990年代以降、ランドマークタワーやパシフィコ横浜といった大型施設が造られていった。そうした開発の中でも、造船所時代に使用されていたドックの跡地を保存し、広場として活用するなどの取り組みを行い、港町イメージの保全に積極に努めている。

こうしたさまざまな施策により、「異国情緒のあるおしゃれな港町」というイメージが横浜全体のイメージとして定着し、横浜駅周辺のブランド価値向上に大きく貢献しているのである。