登る山が高ければ高いほど、その一歩は重みを増していく。若手に負けても、タイトルを失っても、羽生は歩みを止めない。その根幹を支えているのは、AIの影響を受け確率重視になり、皆が同じ戦法、戦術になっていく現代将棋へのレジスタンスである。

「不利なものにこそ可能性がある」

「今後さらにAIの影響が進んでいったとき、内容が画一的になるかどうかが将棋の世界の運命を決めることになる。例えば勝つ確率が8割と2割に分かれたら、人間は80対20には分かれずに、98対2くらいに分かれてしまう。確かに今、AIによって確率や統計の精度が強烈に上がっているので、ミクロ的に見れば、それに従うほうが正しい。でも、皆でそうするのは、将来的に非常にリスキーなことです。AIによって新たな課題は与えられているけれど、将棋の可能性を狭めてしまうことにもなる。やっぱり、2のほうの人がいないと、廃れてしまいます。多様性は本当に大事で、少し不利とか、ダメと言われるほうにこそ、私は可能性があると思っているんです。

ただ、負けますねぇ(苦笑)。将棋以外のあらゆるジャンルでもそうなっていくでしょうけど、恐ろしく精度の上がった確率や統計に下手に抵抗すると、大変な目に遭います」

そう話したときの羽生の楽しそうな笑顔を私は忘れることができない。

無冠だからこそ、より自由に

羽生の真の敵は人間ではなく、AIに強く影響された現代将棋そのものなのだろう。それを深く理解し解明するための壮大な実験は、これからも続いていく。目の前に次から次へと差し出される新しい課題に、全力で取り組んでいくのみ……。その意志を表明したのが「九段」の肩書なのだ。加齢による衰えとも闘いながら、やがて実験の「答え」が出てきたとき、羽生がまたタイトルを冠する日はきっと来るはずだ。

「私は過去を振り返りません」

永世七冠達成直後に話を聞いたとき、羽生はきっぱりとこう言っている。

守るものはない。無冠になったからこそ、より自由に将棋を指せる。だから私は、羽生九段の今後の闘いぶりが楽しみになっている。

名人挑戦を懸け、現在5勝1敗の2位につけているA級順位戦7回戦(1月11日、対三浦弘行九段)が、羽生の再スタートの場となる。

高川武将(たかがわ・たけゆき)
ルポライター。1966年、東京都生まれ。早稲田大学卒業後、新聞社、出版社を経て、フリーランスのルポライターとして独立。「Number」をはじめ月刊誌、週刊誌などで主に人生と闘うアスリートを題材にした骨太のノンフィクションを多数執筆する。主な作品に「記録の神の嘆き。プロ野球は死んだのか」、「オリンピックに嫌われた男。」、「命 坂本博之の決断」、「羽生善治42歳。『闘う理由』」、「アドリアーノ 絶望の街に生まれた奇跡」、「高橋尚子 3500mの青春」、「棋士道 羽生善治『将棋の神』に極意を質す」など。
(写真=時事通信フォト)
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