最初の会社が倒産し、多額の借金

新会社で意気揚々と、福島は日々、営業に飛び回ったが、なかなか大口の顧客をつかめず、経営は自転車操業だった。社員は7人まで増えたものの利益が上がらず、79年にはついに倒産に追い込まれた。

加工機械の70%を自社で開発・改良。独自の専用機で加工しているから、他社はまねすることができない。

葉山に敷地50坪の自宅を建てていたが、倒産によって手放さざるを得なくなった。その上、さらに家1軒分ほどの借金も背負った。

「男として家を失ったのが恥ずかしくて、葉山を出ようと思ったのですが、妻にこの地で生きぬくべきだと励まされ、葉山でアパートを借りて出直すことにしました」

翌80年には一正機工の社員と妻の3人で芝技研を創業。アパートの6畳間が事務所だった。社名は愛してやまない芝商業高校にあやかった。福島は当時の状況を「折々の決断」という手記にこう書いている。

「差別化する技術もなく七転八倒の連続。『人の行く裏に道あり花の山』、花まで見抜く慧眼は持ち合わせていなかったが、当時は硬脆性材料の加工機を扱う企業も少なく、特に精密加工機に取り組むところも皆無の状態であった。全く経験もなく、苦し紛れに硬脆性材加工機の開発に特化した。これが第一の大きな決断であった」

とはいえ、社長の福島をはじめ、技術の分かる人材はおらず、まともな製品も作れなかった。創業から3年ほどは1台も売れず、食うや食わずの生活が続いたが、83年に大手工作機メーカーで技師長を務めていた人が、定年退職後に顧問として芝技研に入社 。ようやく本格的な装置の開発ができるようになった。

ちょうどその頃、ノートパソコン用の2.5インチハードディスクの基板がアルミからガラスに移行しはじめてていた。同社は大手ガラスメーカーから大規模なガラスディスク加工装置を受注し、経営は軌道に乗った。

福島の人柄なのだろう。当時、子供が通っていた葉山の幼稚園の父母たちも協力してくれるなど、葉山にとどまったことが幸運を呼び込んだ。福島も必死で、新聞記事などで関係がありそうな会社を見つけると、すぐに訪ねていき、少しずつ顧客を広げた。

だが、その誠実さがあだとなり、会社の収益力が落ち、累損が資本金の20倍以上になったことはすでに述べた。四面楚歌となる中で、また福島の再挑戦が始まった。