社会人になっても中高時代の英語の劣等感があった
【三宅】この対談では、ゲストの皆さんに英語との出合いをお聞きしています。岡村会長と英語との出会いはどのようなものだったのでしょうか。
【岡村】私は終戦の年、英語が世の中にあふれ出した1945(昭和20)年に小学校に入学しました。母親がこれからは英語が大事だと言って、小学校の高学年から近くの英語の先生のところに習いに行かせてくれました。
そのおかげで、中学に入った段階では、ほかの生徒よりも多少英語ができるようになっていたわけです。今思えばそれが思いあがりだと思うのですが、「みんなよりも英語力がある」とうぬぼれて、予習・復習をサボっていました(笑)。
まあ、3年間は小学校時代の貯金でなんとかなったのですが、高校へ進んでからは逆に英語が苦手になりました。成績もだんだん他人に抜かれていくと、それが劣等感に変わり、大学入試も英語ではだいぶ苦労しました。それが現在でも英語に対するアレルギーのようになっています。
【三宅】そうなのですか。
【岡村】その後、東京芝浦電気(現東芝)に入社して、海外の仕事もあるものですから、会社が退けてから英会話スクールにも行きました。入社10年ほどして、アメリカのウィスコンシン大学へ留学の機会を与えられましたが、中・高時代の劣等感はずっとありましたね。
【三宅】とはいえ、MBA(経営学修士)の学位も取っていらっしゃいます。
【岡村】ビジネススクールでは、基本的にケーススタディがすべてです。要するに本を読まなければ話にならないわけです。当然、読む力はそれによって高くなります。けれども、成績の基準がクラスパーティシペーションといって、クラスでの議論にどれだけ参加できるかに置かれていました。これがなかなかできませんでした。
幸い私は、会社でのビジネス経験がそれなりにありましたから、ペーパーテストではいい点を取れました。アメリカ人の学生からは「お前はテストだけはできるけど、クラスでは黙ったきりになるのはどういうわけだ」と変人扱いされたものです。どうも、ビジネス人生で英語力を伸ばすのに失敗した気がしています。
【三宅】そんなことはないと思います。そうした経験をされた岡村会長からごらんになって、日本人の英語力が中学校、高等学校、大学と多い人で10年間も英語を学ぶわりには使えない、苦手だというのはなぜだと思われますか。
【岡村】留学先の大学には、もちろん日本人もいましたし、ラテンアメリカやヨーロッパの学生も数多くいました。そんな彼らと比べて、どうも日本人は正しい英語をしゃべろうとしすぎる。
私が、いまでも覚えているのは「お前の英語は耳に心地いい」と言われたことです。しかし、話す機会は極端に少ない。私が何か言おうと頭の中で英語の構文を組み立てているうちに、メキシコやブラジルの学生がどんどん発言してしまいます。それから、これは言い訳ですが、日本語というのはなかなか英語になりにくいところもあるのではないでしょうか。
【三宅】それはどのような時ですか。
【岡村】いまでもそうなのですが、例えば、ラグビー協会の集まりなどで、会長として英語でスピーチをしなければならない場合、日本語で原稿を書いて、さあ訳そうとすると、いい英文にならない。これからは論理的な日本語を勉強する必要があると思っています。
【三宅】確かに、そんな経験は私にもあります。
【岡村】やはり仕事でも会議でも、筋道を立てて英語を話す必要があります。とにかく、しっかり考え、質問し、発言するように心がける。そうでないと、相手に通じないことが往々にしてあります。それがまた、劣等感になってしまっている可能性もあるのではないでしょうか。