なぜこの状態がOKなのかと言えば、観客は物語の結末だけを求めているわけではなく、世界観を愛(め)でること自体を目的としているからです。

これは東浩紀さんが2001年に『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)で提唱した「データベース消費」に他なりません。かつてはサブカルチャーの分野にのみ適用されていた消費の形態が、娯楽として最も裾野の広い「世界展開するハリウッド映画」に適用されたのが、10年代なのです。少なくとも昨今のクロスオーバー作品は、そういう客層によって支えられています。

それゆえMCUはいつまでたっても終わりが見えません。敵が現れ、倒したと思ったら黒幕がいることをラストで匂わせ、次回作に持ち越す。それを延々と10年近くも続けています。目的地を設定せず、広大なリゾート島の周囲を、オープンカーでずっとドライブしているイメージです。

クロスオーバー作品は「OS」

ハリポタ的なシリーズは作を重ねるごとに尻すぼみになりますが、クロスオーバー作品はむしろ逆。たとえるなら、新しく登場したOSが年月を経てどんどんバージョンアップしていくようなものでしょうか。

最初はユーザーが少ないものの、キャズムを超えたところでユーザーは一気に増加トレンドに転じ、対応アプリはどんどん増え、各社から搭載端末がこぞって発売されるようになります。OSを中心としたエコシステムが広大に構築され、ビジネスチャンスが増大するわけです。

同じようにクロスオーバー作品群も、作品数が増えれば増えるほど、作品同士の連携によって露出機会が増え、シリーズ間の観客の行き来が頻繁になります。観客は観ていない作品に対する興味を喚起され、レンタルや配信で追っかけ視聴します。製作側としては、知名度の低い役者が知名度の高い役者に引っ張られてブレイクさせられるメリットも享受できる。さまざまな経済活動が活性化して、「みんなが幸せ」になるのです。

クロスオーバーとは、一見して「一見さんお断り」の囲い込みに見えて(その側面は確かにあるでしょうが)、一方で「経済機会の拡大」にも大きく寄与する、とてもよくできたシステムなのです。

10年代後半、薄まる政治テイスト

このように、ここ数年でスキームを確立したクロスオーバーモデルですが、ここ2、3年はある傾向に気づきます。それは、10年代前半までの作品に比べて最近の作品は、「現実の政治」に対する批評的アプローチが薄まったということです。

アメコミ映画の醍醐味のひとつに、現実のアメリカ国内政治を想起させる組織論や「国家vsヒーロー」といった政治的対立を、うまくエンターテインメントに織り込み、ついでにアメリカ人の自尊心や誇りを問う――という側面があります。

MCUで言えば、『アイアンマン』3作(08年、10年、13年)も、『キャプテン・アメリカ』の最初の2作(11年、14年)も、そうでした。お祭り映画ゆえにやや能天気な作風を志向する『アベンジャーズ』の1作目(12年)も、「核抑止力」的な主題を脚本に織り込んでいたのです。

しかし2015年の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』あたりを境に、物語が帯びる政治テイストは薄まります。深刻さが減退し、明るいトーンの作品が増えていったのです。

新規シリーズである『アントマン』(15年)、『スパイダーマン:ホームカミング』(17年)は明るいコメディタッチですし、『ドクター・ストレンジ』(17年)も深刻ではありますが、現実の政治というよりはSFファンタジーに振った世界観です。前2作がかなり政治臭く、批評的評価も高かった『キャプテン・アメリカ』ですら、16年の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では政治テイストが薄れました。