「私は1位、1位、1位、1位でした」

以前、片山にお会いした。小学校の先輩後輩、しかも幼稚園も同じだったので話は弾んだ。共通の知人がいて話が盛り上がった。「神童」と呼ばれていたことを告げると、嬉しそうに応えてくれた。東京教育大学附属高校時代、自分が女子として初めて一番で通したことについて、無邪気に語る。勉強はできるのが当たり前、という自慢話だが、不思議とイヤミはなかった。勉強の方法にはコツがあると話す。

これも神童の特徴なんだろう。自分に合った勉強のやり方を自分で探り当てる。それも自然に。こうして、片山は神童の名に恥じることなく成績トップを続けた。

高校3年の春、代々木ゼミナールの全国模試で一番となった。それをいまでも誇りに思っており、機嫌が良くなるとこの話を持ち出してくる。高校の先輩には鳩山邦夫がいる。のちに片山が鳩山と会ったとき、こんなやりとりがあった。

「まだ財務省の役人だった片山さつきが『鳩山先生は高校時代、全国模試で1位、1位、3位、1位だったそうですね』と聞くと、邦夫は自慢そうに『そうだ』と答えた。すると片山さつきが『私は1位、1位、1位、1位でした』と勝ち誇ったように言ったというのです。さすがに邦夫は、あとから『あの女はなんだ!』とカンカンだったといいます」――「日刊ゲンダイ」2010年3月18日号

神童は大人になって、神童であり続けたことを誇りに思う。そんな人がたまに見られる。まわりから見ればいやみこの上ないが、神童本人にすればアイデンティティーを認めてもらいたいところだろう。

子どものころ、頭がよかったことについて、成人になってからも自慢する。とくに聞かれるわけでもないのに、「勉強しないでもいつも満点だった」「まわりから神童と呼ばれた」などと話す。その地域で一番の進学校に通っていたことを、突然、脈絡もなく話す人もいる。きっと誇り高いことだろう。本人は自分のプロフィールをたんたんと話しているつもりである。だが、その言い方がちょっとでも自慢っぽく聞こえてしまうと、「自分の頭のよさを自慢している」と顰蹙を買いかねない。

頭のよさは、やっかいである。自ら頭のよさをカミングアウトするのは、これでなかなか慎重さを要するからだ。もっとも、頭のよさ同士、あるレベルまで達するとそうでもない。

1980年代。大蔵省内の20代の官僚のあいだでこんな会話がなされたことがある。

「僕は共通一次試験で870点とったよ。駿台模試では10位以内に入ったことがある。四谷大塚でもたいてい10番以内だったな」

「それならば、僕のほうが勝ったな。共通一次880点、駿台模試1位、四谷大塚3位だった。だから君の国会答弁にはときどき誤植があるのか」(1979年から始まった共通一次試験の最初のころは900点満点)

そして、2010年代、東京大学法学部の学生がこんなやりとりをしている。

「SAPIX、鉄緑会、駿台模試でだいたい20番以内だった」

「どっちも1ケタ順位を取っていたから、僕の勝ちだな」

中学受験、大学受験での「栄光」はいくつになっても誇るべき勲章と、思っているエリートたちはいる。若かりし頃の頭のよさが証明されることに無上の喜びを感じる人たちだ。反対に、身近なところに、中学受験や大学受験で自分がとった成績を上回る人が現れるとショックを受ける人もいる。頭のよさは、そのまま自尊心につながってしまうだろう。