『祈りの島を訪ねて』の中で、一番胸を打たれたエピソードがある。それは、頭ケ島教会をめぐる話だ。
この教会は、信者が総出で島の石を切り出して建設されたものだ。信者たちは、昼は教会の建設に精を出し、夜は漁に出て資金を稼ぎながら、10年もの歳月を費やして完成させた。「先祖が作り上げた教会を、特別な思いで守っている信者がいました」とナレーションは語る。その信者というのは頭島サナさんだ。
頭島サナさんは、もうすぐ90歳になろうという女性だ。彼女には、30年以上にわたって毎日続けてきたことがある。それは教会に続く道路の清掃だ。玄関を出たサナさんは、チリトリと箒を手にして家を出る。100メートルほどの道路を、2時間かけて掃き清める。腰はほとんど直角に曲がっているが、彼女はせっせと掃き続ける。
「もう無理すんなってもう無理すんなってみんなが言うてくるっとさ。それでもなあ、やっぱり、しつけた(習慣になっている)仕事はなあ。ちらかっとれば黙ってはおれんでさ。ちらかっとれば掃除するとって」
頭ケ島教会は今、わずか7世帯によって守られているという。サナさんの姿に触発されて、週に2日は信徒たちが集まり、一緒に清掃活動を行なっている。ある男性はサナさんについて「教会と同じように宝物ですよ」と語る。「この人がいるから、私も頑張れるっちゅうことも言えるわけですね」と。
画面が切り替わる。
よく晴れた日曜日。老人が教会の鐘を響かせている。集会が始まる合図だ。毎週日曜日には信者全員が教会に集まり、祈りを捧げている。サナさんもまた、腰を直角に曲げながらも杖をついて階段をのぼり、教会へと歩いていく。
NHKが取材した2015年の段階で、サナさんは顎の骨に癌を患っていた。彼女の家には、回復を願う信者が毎日のように看病に訪れる姿も映し出される。でも、病に犯されながらも、彼女は教会に通い続けていた。彼女が祈りの言葉を捧げる姿が、アップで映し出される。その向こうにはステンドグラス越しに光が差し込んでいる。祈りを捧げ終えた彼女は、「いいですねえ、こんなにみんなで(お祈り)するのは」と語る。再び画面が切り替わると、ある墓が映し出されている。そこには「サナ」の文字が刻まれている。取材の半年後、サナさんはこの世を去ってしまった。
番組枠があったからこそ記録されたもの
教会に続く道を掃き清め、教会で祈りを捧げる彼女の姿は、「イブニング長崎」の番組枠があったからこそ記録されたものだ。こうして現在を記録し続けるのはテレビがあるからこそ可能なことであり、それはとてもかけがえのないことだと思う。
ただ、サナさんの姿が印象的だったぶん、番組を観終えた正直な感想としては少し物足りなさを感じた。これはやはり、ドキュメンタリーではなく、夕方のニュース番組だという感じがする。
ニュース番組は常に“現在”のものである。昨日のニュース番組を録画して視聴する人はかなり少数派だろう。ニュース番組の価値は、それが“現在”であり“最新”であることに尽きる。もちろん、ニュース番組で放送された映像は、50年後には貴重な記録になる場合もある。そこには時間の経過が作用する。“現在”を切り取った映像が“記録”(つまりドキュメント)になるためには、何かの作用が必要だろう。その作用が時間の経過である場合もあれば、ディレクターによる編集である場合もある。『祈りの島を訪ねて』は、“記録”になる前の“現在”の映像だと感じられた。番組を通して描き出したストーリー以上に、個々の映像のほうが強さを持っている。それをどう編集して提示するかが、ドキュメンタリーには問われているはずだ。
この記事の冒頭で書いたように、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界文化遺産への登録を目指しており、推薦書が提出されている。だが、この推薦は昨年、一度取り下げられた経緯がある。その段階では、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として推薦がなされていた。
世界遺産に登録されるには、それが「顕著な普遍的価値」を有していると認められる必要がある。当初のプランでは、キリスト教が伝来し、東洋と西洋の価値観の交流があり、静かにキリスト教が受け継がれてきた歴史を指し示すものとして「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産に推薦するはずだった。しかし、文化遺産の調査を行う諮問機関であるイコモスは、それだけでは「顕著な普遍的価値」を有していないと判断した。世界遺産に登録するためには、長い禁教の歴史の中で信仰が守られてきたことに焦点を絞る必要があるとの立場から、名称も「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に改められて、再度推薦がなされることになったのだ。
『祈りの島を訪ねて』を観ても、五島列島の人びとの生活には禁教の時代の影が大きいことはよく伝わってくる。その上で思うのは、その生活がかけがえのないものであるのは、弾圧を受けたからではなく、世界遺産に登録される可能性があるからでもなく、日々祈りを捧げ、その生活を守り続けた人びとが存在するからである。祈りを捧げるサナさんの姿を見返しながら、その思いをあらたにする。