戦前生まれの日本女性にとっての「キャリア」とは
野際さんは1936年生まれ。他に1930年代生まれで日本の女性職業人に誰がいるかと考えると、作家の曽野綾子さんや有吉佐和子さんなどがそれに当たる。犬養道子さんは1921年生まれ、山崎豊子さんは1924年、緒方貞子さんは1927年で、もう少し上の世代だ。
野際さんは生前、疎開で東京大空襲を免れたと語っている。戦前生まれの彼女たちは幼年期から思春期を戦時中に送り、終戦はすなわち「生き直し」を意味したのではないか。
野際さんと同世代といえば、以前私がインタビューした女性の中に、1932年生まれ、青年海外協力隊第1期女性隊員で、のちにNGO日本国際ボランティアセンター事務局長となり日本のボランティア活動の草分けとなった女性、星野昌子さんがいらっしゃったのを思い出した。(参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/星野昌子_(学者) )
戦前から戦後初期の女性を取り巻く環境は、想像を裏切らない封建的なものだった。星野さんの父はアメリカからの帰国子女、母は職業婦人という、当時としては珍しくリベラルな家庭。慶應義塾大学文学部で高等教育を受けて名家に嫁ぎ、10年間専業主婦として夫に仕えたのち離婚、子供は夫側へ。「良き妻、母であり続ける保守的な暮らしは私には向いていなかったわ」と、さらりと語ってくれた星野さんだったが、どれだけ能力があるとは言え、そうやって丸裸で世間へ放り出されることが当時の女性にとってどれだけの覚悟を要し、また母としても痛みと悲しみを要する決断だったか、苦しまなかったわけがない。
33歳のある日、たまたま国会図書館で青年海外協力隊募集の新聞記事を読んだ星野さんは、ちょうど年齢制限が33歳までとあったことに運命を感じて、即応募。初代協力隊の一員としてアジアへ赴任し、その後も海外貢献の第一線に居続け、経済的に恵まれない現地の子供を自分の養女とし、海外暮らしは20年近くに及んだ。星野さんは、緒方貞子さんの海外視察団の通訳としてアテンドしたことがあり、その時、緒方さんという優れた存在に驚きを隠せなかったという。帰国後は日本に「ボランティア」という言葉を定着させるべくNGOを設立、アジア・アフリカの難民救済や日本女性の地位向上活動に尽力し続けた。インタビューでお目にかかったのは2年ほど前だが、すでに5カ国語を操る語学力の持ち主であるにも関わらず、その時も6カ国語目を学んでいるというエネルギッシュな女性だった。
「頑張ったら報われるという社会ではなかった日本では、世界を感じる最前線に女性がいるのは難しかった」と、星野さんは語っていた。「私はラッキーだったのよ」。日本と世界を駆け巡る怒濤の人生を、ラッキーという軽やかな言葉でまるっと表現するその余裕は、80を超えた職業人の、達観の境地だったのだと思う。