台湾の鴻海グループによる出資が実行され、新体制が発足したシャープ。出資翌日の8月13日に同社の社長に就任したのが、鴻海の副総裁でもある台湾人の戴正呉だ。台湾で「現代のチンギス・ハン」のあだ名を持つアクの強い経営者・鴻海総裁の郭台銘(テリー・ゴウ)の腹心として知られる人物である。
戴正呉は社長就任後、取締役9人のうち自身を含めた6人を鴻海側の人材で固め、「信賞必罰」を合言葉にリストラを匂わせる一方、シャープの社員全員に課されていた給与の一律2パーセントカット制度を廃止。さらに分権型のカンパニー制をとっていたボトムアップ式の社内体制を、中央集権型の事業本部体制に改めてトップダウン式の社風を打ち出すなど、さっそく「鴻海式」の大胆な社内改革を実施しつつある。
本稿では台湾メディアの報道などをもとに戴正呉の個性を分析することで、新生シャープの今後の行く末を占ってみることにしたい。
台湾最大手メーカーからの転身
戴正呉は1951年年生まれの現在65歳。台湾北東部の宜蘭県に実家を持つ本省人(台湾島内に祖先のルーツを持つ台湾人)である。青年時代は当時の台湾の最大手家電メーカー「大同(TATUNG)」傘下の私立大学・大同工学院化学エンジニア学部で学び、卒業後はそのまま大同に幹部候補生として就職した。
戴正呉は日本語を話せるが、これは母校の大同工学院が日本語教育に力を入れていたことと、1970年代に大同の社内留学制度で日本に2年間赴任した経験を持つためだ。ちなみに彼はこの赴任中、なぜか真冬の佐渡島で1か月間カンヅメになり半導体の生産技術のレクチャーを受けるという、ちょっと変わった体験も積んでいる。その後の1985年、創業11年目の新興企業だった鴻海精密工業に課長として入社した。
「(転職の)主な理由は、私の性格としてもう少し駆け足で走ってみたいと思ったからだよ」
「何より、壮大な野望を胸に抱いている創業者の郭台銘さんがいたからなのさ」
台湾メディアによれば、彼自身が語る当時の転職理由はこうしたものだ。後述するように、鴻海のシャープ買収事件以前の戴正呉はメディアの単独取材をほとんど受けず、たまに発言した際も極めてあたりさわりのないことしか話さないため、彼の真意はつかみ難い。
ただ、戴正呉の入社当時の鴻海は、経営が軌道に乗ってまだ数年しか経っていない時期だ。成長株として投資家の注目を集めてはいたものの、売上高は10億円程度で従業員数も300人足らず、台湾の製造業ランキング1000社にやっとランクインできたばかりの中小部品メーカーに過ぎなかった。国際展開も皆無に等しかった時期である(ちなみに現在の鴻海グループの連結売上高は約15兆円に達し、100万人以上の従業員を擁する中華圏最大の企業に成長している)。
戴正呉の入社の経緯は求人広告に応募したからだ、という話もあるが、台湾の最大手家電メーカーの幹部候補社員から無名の中小企業への転職が、かなり大きな決断だったことは間違いない。古巣の大同は鴻海の初期の大口の取引先であり、彼の入社の実態はスカウト好きの郭台銘によるヘッドハンティングだった可能性が高いだろうと思われる。
1980年代当時、郭台銘は経済の絶頂期を迎えつつあった日本の企業(特に松下電器産業)を自社の手本にしていたとされ、1986年から社内に「対日業務グループ」なる組織を作らせ、積極的に日本人顧問を招聘していた。また、1988年からは自社の生産ラインにトヨタ式生産方式の5S運動を採用している。
こうした当時の経営方針も、日本通の戴正呉の入社の背景なのだろう(余談ながら、鴻海側から新シャープの取締役に送り込まれた中川威雄も、この時期に郭台銘から金型技術の専門家として社内講演を依頼されたことで、鴻海との縁が生まれている)。