「とっくの昔に死ぬ人が今は生きている」
私自身、介護ではほんのわずかですがつらい思いをしましたし、介護現場で働く人から聞いた話では、それ以上の悲劇的状況がたくさんあるといいます。孤立、虐待、貧困……、親のために自分の人生を犠牲にしている人も少なくないそうです。
医療のおかげで私たちは昔より多くの時間が与えられるようになりました。
それが健康で楽しく過ごせる時間ならいいですが、今はそれを超えて過剰に与えられ過ぎてしまっているのではないか。昔ならとっくに死んでいる人が、今は生きている。死別はつらく悲しいものですが、人がより自然な死を迎え、この世を去ることによってひと区切りがつく。極端な考え方かもしれませんが、自然を超えた生を与えられたことによって生じた不都合が介護の悲劇のような気がします。
その点、人間以外の生物の生死は自然そのもの。種の保存という目的を果たしたところで死ぬというところは、介護の不条理からかけ離れていて、すがすがしく思えるのです。
また、私がつくった享年表に書き込んだ人物も、昔の人は戦死者を除いて自然な死を迎えています。つまり、若死(病死含む)にしている人が多い。歴史に名を残す人たちですから、その多くが有り余る生命力と類まれな才能を持っていたでしょう。だから、死が迫ってきた時は耐えきれないほどの悲しさを感じたはずです。「死にたくない。まだやりたいことはたくさんあるんだ。オレにもっと時間をくれ」と。
しかし、彼らは限られた時間で大事を成し、あるいはすばらしい作品を残しました。そして今も多くの人にリスペクトされている。自分の人生に満足していたかどうかは分りませんが、私の目からはすごい一生だったと思えるわけです。
で、その享年はひとつの指標になる。
その一生の濃密さや成し遂げた業績はとても比べられるものではありませんが、「あの人と同じだけ生きてこられたのか」という一種の満足感のようなものはありますし、逆に「あのすごい人もこのトシで死んだんだから、自分もそれ以上を望むこともないな」と自分を慰めたくなることもあります。
こんな思いを抱くようになったのも、介護の現実に接して「あんまり長生きしたくないな」とか「生に執着するのは格好悪い」と思うようになったからかもしれません。そんなことを考えているくせに健康診断を受けて異常がないとホッとしている自分もいるわけですが……。
10年間、多くの偉人たちの享年をぽつぽつ調べることで、私の心の中で次第に湧き上がってくるものがありました。それは、いろいろな人の死生観を知りたい、ということです。
同じ時代、同じ社会で生きる人が、今後どのように生き、そして何歳ぐらいで、どんな死を迎えたいと思っているのか。極論すれば医療の力を借りて、何歳までもダラダラ生きられる。そんなふうにも思える現代だからこそ死に方は自分で決めるものではないかと感じているのです。
次回からは、さまざまな分野で活躍する方から、その死生観とその境地に到達するまでを聞いていきたいと思います。