宮内義彦氏に13年間仕え、学んだこと

宇都宮支店には、同期入社の地域限定の総合職の女性がいた。この女性と結婚した。

「私よりも家内のほうが、営業成績ははるかによかったですね。支店長からもそのあたりをからかわれていました」

その後、東京の住宅事業第二部、さらに1994年に、社長室へ異動となる。当時の代表取締役社長・グループCEOは、宮内義彦氏(現シニア・チェアマン)。経済同友会の副代表幹事として、財界活動を本格化させた頃だった。宮内氏のその活動をサポートするのが、三浦さんの役目だった。

宮内氏は社長として経営全般に関わる一方で、財界の様々な会議や会合などに参加し、発言やスピーチをする。講演をするときもあれば、政府要人や財界人とも頻繁に会う。テレビや新聞などの取材も受ける。

三浦さんは、大量の仕事を次々とこなす宮内社長の物事の本質をとらえる力に驚くものがあったという。

「大変に忙しい方で、スケジュールは常にびっしりと埋まっていましたが、それぞれの仕事や問題の本質を素早く見抜き、テキパキと処理されていました。私もそこが大事だったのか、と気づかされることがよくありました。物事の見方や考え方がとてもシンプルなのです」

三浦さんの仕事にも、影響を与えるようになった。社長に報告をするときには、まず、問題の本質を見定める。そのうえで「事実の報告」、次に「推測」、さらに「解決するうえでの選択肢」を素早く、簡潔に伝えるようにした。

「例えば、昨日の会議では、こういう議論がありました。次の会議では、こんな話が議論されるか、と思います。私は、こういう点が議論を深めるうえで大切だと考えました。いかがでしょうか……」

その後、宮内氏は規制緩和を進める旗振り役として活躍し、オリックスの社名も広く知られていく。三浦さんは13年間、仕えたが、必要以上に緊張することは一度もなかったという。