エッセイスト山本夏彦の代表作に『世は〆切』がある。締め切りがあるから世の中はまわっているのだ、という逆説的な真理を言い当てた警句である。それにならって、僕が流行らせようとしているのが「世は口実」という言葉だ。

本音は「この女とセックスしたい」であっても「歌舞伎を観に行こう」と口実を設けることで、やましい思いをせずに二人きりになれる。誘われる側も「わたしは伝統芸能に触れたいだけ」と言い訳できる。つまり「不本意ながら要求を呑む」ポーズを取れるのだ。

困ったことに、昨今は本音で生きることこそ美徳であると考える人が少なくない。だが、それは間違いだ。

人は誰しも本音をさらけ出して生きているわけではない。会社や家庭、実家などそれぞれの場面に合わせてペルソナ(仮面)を付け替えつつ、会社員や夫や息子という人格を演じている。もちろんそれは悪いことではない。口実を使って女性をデートに誘うのも同じである。「世は演劇」なのだ。

作品だけではなく、実生活でも演劇的な世界観を生き切ったのが三島由紀夫である。戯曲『鹿鳴館』には、三島の生き方を象徴する次のような台詞が登場する。井上馨をモデルにしたとされる影山伯爵が、鹿鳴館のダンスパーティーを眺めながらこう嘯うそぶく。

「ごらん。好い歳をした連中が、莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな」

並の作家なら「欺瞞は悪い」と慨嘆するところだが、三島はもっと深いところまで見通していた。ここで言う「欺瞞」には、西洋風を演じることで欧米諸国を眩惑し、不平等条約改正につなげようという企みが隠されている。

一方、要求を呑みたくないときに使う弁法もある。始終貧乏をしていた石川啄木が、大隈重信に借金を申し込んだときのこと。大隈は鷹揚に「全額出そう」と答えたが、「ただし」と付け加えた。

「君の若い身体を、わしの老体と交換してくれればの話だが」

そこには「若いのだから自力で道を開きなさい」という戒めも含まれていたはずだ。一本取られた啄木は、すごすごと引き下がっていったという。

(構成=面澤淳市)