極上ワインとの遭遇
7月15日は岩川隆さんの命日である。
岩川さんはノンフィクション、小説ともに読み応えのある作品を数多く残され、私のような者にも数多の技法作法(さくほう)を惜しまず伝授してくださった。それなのに何ひとつ会得できていない不肖の身を恥じるばかりである。
ワインも岩川さんに教わった。
ある日、新宿を二人して歩いていると、
「岩川さん」
と、声をかけられた。しゃんと背筋を伸ばし口髭も粋な、まさにダンディーを具現化したような老紳士で、岩川さんは破顔し、
「おお、柏木さん」
老紳士に誘われるまま、超高層ホテル地階にある中華料理店へ入って、挨拶を交わし、
「ワインでもいかがですか」
勧められ、パニエに収まった赤ワインが運ばれてきた。正装した女性ソムリエがナイフを取り出し、横にしたままの瓶口へ当て、するりとぬぐうようにすれば、もう鉛のキャップは脱げ落ち、くいくいとスクリューがねじ込まれ、いともたやすく抜栓、大ぶりなデカンタへゆっくりと傾瀉(けいしゃ)された。
「しばらくお待ちを」
そのソムリエが著名なかたであることは後に知ったが、その時はデカンタージュすら初見の無知な若造であった。
注がれたワインを勧められるまま口にし、
「ああ!」
たちまち心奪われ、わが魂は誘われるまま桃源郷の香(かぐわ)しい風にふわふわと舞うよう。これはもはやブドウの酒ではない、媚薬であろう。ふと我にかえり、銘柄をメモしていたら、
「美味いか、不味いか、それだけです。要はいいワインに中(あた)るかどうか」
「万馬券みたいなものですね」
「競馬より的中させるのは難しいです」
トータライザー社を経営している柏木久太郎さんと馬券師でもある岩川さんの問答を小耳にはさみ、こそこそとCh(シャトー).Lafite(ラフィット)Rothschild(ロートシルト)と走り書きした紙片をしまったものである。