僕にとっての笠井さんは、掛け替えのない方で、大体僕が相談すると、ほとんどの場合は、「いきましょう」と言っていただいておりましたが、1回、強烈に反対されたことがありましたね。それはリーマンショックの少しあとで、わが社の株価もぼろぼろになって、僕も全財産を失う、会社自体もかなりやばい、というときに、「まあしかし、業績はいいんだから大丈夫ですよ」と、逆に笠井さんが励ましてくれました。

その後、少しリーマンショックが収まって、業績がさらに好転して、僕としては、株価が上がったり下がったりすると、株主の皆さんにも心配をかけるし、アナリストやジャーナリストへの説明もいろいろと面倒くさい。もういっそのこと、上場を取りやめて、私が個人で会社を背負おうか。そういうふうにも思うんです、と相談したときに、笠井さんは、「絶対にそれは反対です」と、止められました。

「確かに業績は非常によくなっていたので、株式上場を取りやめて、個人会社に戻す。その資金の調達は可能ですよ。何とかなるでしょう。でも社長、いいんですか、そんなことで。そんなことでいいんですか。ソフトバンクはもっと世界に大きく羽ばたいていかなきゃいけないんだ。だからそんなわずらわしさとか、そんな面倒くささで、われわれの夢をちっちゃくしていいんですか」

そう言って、思いっ切り止められましたよね。ほとんどのことに賛成して、「いきましょう」と言ってくれる笠井さんに、「絶対に反対です。私は身を挺して止めます」と言っていただきました。

いま思い起こせば、もしあのときに笠井さんが止めてくださらなかったら、その後のスプリントの買収も無理だったでしょう。その後のさらに大きな夢を描くという勝負も無理だったと思います。さすがだと思います。

学生の頃、笠井さんは野球が大好きでキャッチャーをしておられたということを、楽しそうに思い出しながら語っておられましたが、僕にとっての最大の名キャッチャーだったと思います。僕の肩に力が入りすぎてるときは、「社長、そんなにカンカンカンカン、若いもんを怒っちゃいけませんよ」と、肩の力を抜くことを諭してくれました。僕が弱気になってるときには、「ガンガンいきましょう」と、励ましてくれましたね。

そんな笠井さんが亡くなられた。会社で会議中に聞いて、急いで病院に駆けつけました。そのときの笠井さんの、安らかな顔が――。ありがとうございました。これからも、ずっとずっと、応援していてください。頑張ります。ありがとうございました。