造る場所も、組む相手も変えた

組み替えたのは、商品だけではない。BYDはハンガリーの新工場で、2026年末に量産を始める計画だ。小鵬汽車がパリで欧州向けに売り出す旗艦SUVも、欧州で生産される。造る場所も変えている。

BYDショールーム
写真=iStock.com/winhorse
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さらに、組む相手も変えた。零跑汽車の海外展開を担う会社は、欧州の大手自動車グループであるステランティスが51%、零跑が49%を出資する合弁会社である。中国車を海外へ広げる事業を、欧州の大手が主導しているのだ。

逆の例もある。2026年2月、欧州委員会は、フォルクスワーゲンの中国法人が中国で造るスペインのブランド、CUPRAの電気自動車について、関税に代わる約束を受け入れた。最低価格を守り、輸入台数を抑え、EU域内に投資するという約束である。欧州ブランドの車でも、中国で造れば規制の対象になる。

関税は、競争の条件を変える。しかし、競争そのものを止めるわけではない。条件が変われば、企業は商品も、造る場所も、組む相手も組み替えてくる。締め出したはずの相手は、別の入口から、より手ごわい姿で戻ってくる。

では、壁の内側にいる日本の側は、何をすればよいのか。

かつて「締め出される側」だったのは日本車だった

実は、日本の自動車産業は、この良い争いを一度、見事に戦っている。

1981年、日本は米国向け乗用車の輸出を自主的に規制することになった。トヨタ自動車の社史によれば、初年度の上限は168万台である。当時、米国の市場で「締め出される側」に立っていたのは、日本車だった。

だが、日本のメーカーは、海外市場を、日本から完成車を送り続ける場所としてだけ捉えてはいなかった。ホンダは1979年に米オハイオ州で二輪車の生産を始め、輸出規制に先立つ1980年1月には、米国での四輪車生産計画を発表していた。1982年11月、同じ地で「アコード」の生産が始まる。現地で造り、人を育て、地域に根を張る。日本メーカーが各地で積み重ねてきたこの取り組みは、冒頭で紹介したトヨタのフランス生産にも表れている。日本車は、海外で買ってもらう車から、海外の人々とともに造る車へ、その存在を広げてきたのである。