今なお日本人を魅了し続ける、司馬遼太郎。義弟が在りし日の思い出と司馬作品について語る。
当時の茶の間の会話で、私がいつも驚かされていたことがあります。私の雑駁な話が司馬遼太郎の頭脳をめぐって返ってくるのです。例えば食べ物の話はやがて貿易の話、世界の話、あるいは歴史の流れの中に入ったりしながら輻輳します。何十分か経って気づいたら、それがそのまま文明論や随筆、例えば『この国のかたち』や『街道をゆく』に掲載してもいい、きちんとまとまったものに変わっているのです。こうした経験は、取材旅行をともにした、編集者のみなさんもお持ちでした。
普通、取材旅行は、作家と編集者、カメラマンなど3、4人程度で行くもの。ところが、司馬遼太郎の場合は、編集者や学者、作家も加わって、十数人になることもありました。そして、食事のあと、司馬遼太郎の部屋に集まって、自然と司馬遼太郎の話を聞くような格好になります。そのときに、先ほど話したような印象をみなさんもお受けになったようなのです。茶の間の会話でもそうですが、同じ話はなく、毎日違う。『街道をゆく』に、その辺りの雰囲気がよく出ているように思います。
司馬作品の根底に流れるテーマは、「人間とは何か」「日本人とは何か」「日本という国はどんな国なのか」、ということだったと思います。かつて、歴史観は、皇国史観あるいはマルクス主義による唯物史観の2つで構成されていました。「それでは本当の歴史が見えてこない」「自分で確かめる以外にない」――司馬遼太郎は自分の眼で歴史を調べ、どう解釈するか自分で判断していく努力をずっと続けた人です。そして、それを楽しみました。
司馬遼太郎はたしかに大変な才能はあったけれども、努力と訓練がなければ、あれだけ多くの仕事はできなかっただろうと私は思います。見方を常に中立に、自分の目線を保ち、余計な思想に影響されないように見ていくという訓練です。自身「そういう努力を若い頃からしてきた」と、言っていました。
「イデオロギーというようなサングラス、偏光グラスをかけて見たら物事は見えない。感情に左右されても物事は見えない。薄暗い月明かりの下で見るよりは太陽の下で見たほうがいい」――そういうことを常に自分に言い聞かせて、物事を調べていたのだと思います。
司馬遼太郎記念財団を設立するときに、ふと考えてみましたら、家の中に6万点ぐらいの蔵書があるんです。寄贈本や自身の本、あるいは雑誌、小冊子、辞書、事典も含めてですが、ほとんどは資料。資料はすべて読んでいると思います。その膨大な資料を読みながら、同時並行で何本もの執筆活動をしていました。しかも締め切りに遅れたことはありません。その力は何だったのか、不思議に思っています。
書斎にも何度か入ったことがありますが、神聖な空間として普段はちょっと遠慮していました。仕事をしているときの雰囲気は、ごく普通の感じでした。また書斎から出てくる司馬遼太郎は、いつも笑顔でした。むしろ、われわれ周りの者をいたわって、「元気か、大丈夫か」と言いながら茶の間に入ってきました。難しい顔をしているところは見たことがありません。原稿を書くしんどさや、書斎の中での悩み事などもあっただろうと思いますが、そんな様子は微塵も見せませんでした。