ポジティブ思考とは違う乗り越え方
この事例が示しているのは、まさに冒頭で述べた2つの能力です。
1つ目は頭の切り替えです。出来事と自分の解釈、そして「他の人ならどう捉えるか」を並べて書き出す作業を通じて、Aさんは事実とそれに対する自分の意味づけを混同しなくなりました。
さらに、合わない相手そのものを変えようとするのではなく、「仲良くなれなくても仕事が回る状態をつくる」という一段階手前の目標に切り替え、具体的なルールという形にして上司に相談できたことが、関係を続けながらストレスレベルを下げる決め手になりました。相手の性格という変えられないものではなく、業務上の役割分担という、自分たちで変えられる部分に焦点を絞った結果です。
私はこれをポジティブ思考とは考えていません。むしろ逆で、出来事に対して必要以上の意味を付け加えないという、認知的な節約の技術だと捉えています。事実から解釈へ、解釈から自己評価へと自動的に繋げてしまうと、他人の悪意のない言葉や心無い一つひとつの出来事が、自分の存在価値を脅かす問題にすり替わってしまいますが、健康的に働ける人は、この階段の途中で足を止めることができます。
忘れなくても「切り替え」はできる
2つ目は場所の切り替えです。仕事が終わった後もつい翌週のことを考えてしまう反芻は、脳にとってはストレスにさらされ続けている時間が延びるようなものです。
心理的離脱(psychological detachment)についてはいくつも研究論文があり、健康や仕事のパフォーマンスに関わる重要な回復要因として位置づけられています。切り替えとは忘れる力ではなく、考える時間をこれ以上延長しない力だと捉えると、実践しやすくなります。仕事のことで不安や悩みがあっても、それに24時間支配される必要はないのです。
3つ目は複数の自分という回復の場です。運動や趣味は、いずれもメンタルヘルスの良好さと関連することが確認されています。趣味は必ずしも身体的活動(運動)である必要はありません。運動そのものの効果よりも、会社員としての自分だけでなく、和太鼓をする自分、お菓子を焼く自分、ギターを弾く自分、家族と遊ぶ自分などなど、自分のアイデンティティを一本足打法にしないことにあると私は考えています。職場で傷ついたとしても、それが人生全体の否定にはならない。これは想像以上に大きな防波堤になります。
Aさんにとっての和太鼓の再開は、まさに、会社員としての自分の再発見であり、そこで得た仲間という相談相手の存在が、大きな回復力になったのだと思います。

