田中角栄首相の一言から始まった誤算

これを背景に、1971年6月に台湾が最初に領有権を主張し、続いて同年12月に中国も同様の主張を開始した。いずれも、沖縄返還(1972年)を強く意識した動きであった。中国・台湾は、尖閣諸島を台湾の「付属島嶼」あるいは「古来中国の領土」と位置づけ、明・清代の航海記録や地理認識を根拠として挙げている。

だが、これらは航路上の目標物としての記載にとどまり、国際法上の領有意思や実効支配を示すものではなく、後発的な政治的主張でしかなかった。ところが、日本外交は、この明確な法的地位を戦略的優位として活用してこなかった。

象徴的なのが、1972年の日中国交正常化である。この際、田中角栄首相自らが尖閣問題に言及し、本来存在しなかった「問題」を周恩来との話題の俎上に載せてしまった。周恩来は「今は話したくない」と述べたと伝えられており、その場では事態は大きく展開しなかった。しかし、日本側からあえて尖閣を持ち出したこと自体が、後年にまで尾を引く戦略ミスであった。

田中角栄(1972年6月25日撮影 第3次佐藤改造内閣通商産業大臣)
写真=時事通信フォト
田中角栄(1972年6月25日撮影 第3次佐藤改造内閣通商産業大臣)

その6年後、福田赳夫首相もミス

また、1978年の日中平和友好条約締結時にも、日本側は同様の過ちを繰り返した。訪日した鄧小平は記者会見の場で、「この問題は次の世代の叡智に任せればよい」と発言したが、福田赳夫たけお首相・園田直すなお外相らはいずれも、これに対して事後に特段の異議を唱えなかった。

この沈黙は、日本国内では「大人の対応」と評価されたかもしれないが、中国側や国際社会の視点から見れば、日本が主権問題の棚上げを事実上黙認したとの誤った印象を与えかねないものだった。

この延長線上に位置づけられるのが、1992年の中国による領海法制定である。中国はこの国内法において、尖閣諸島を含む形で自国の領海を明記し、従来の曖昧な主張を制度として固定化した。

これは、尖閣をめぐる中国の立場が「言説」から「制度」へと転換した決定的な節目であった。しかし、日本政府はこの時も、天皇陛下訪中の調整過程にあったこともあり、抗議を行いつつも、事態の管理を優先する姿勢を取った。

天安門事件後における両国の対応の違い――主権主張を制度として固定化する中国と、それに対し明確な戦略的対応を欠いた日本――は、両国の戦略的非対称性を象徴している。