超一流のプロたちがしのぎを削る勝負の世界の厳しさの1つは、1位と2位以下とでは得られるものがまったく違う点である。ミリの差でも一番なら勝者だし、届かなければ敗者。栄誉も収入も、まったく変わってしまう。
もっと厳しいのは、プロである以上、そういう戦いを果てしなく続けねばならないことだ。フロックの勝利なら誰にでもある。しかし、勝ち続けられる人はそうそうはいない。ましてそれを20年以上も続けるとなれば、ほとんど例外中の例外となってくる。
羽生善治が将棋界を超えて注目されるのは、彼がその「例外中の例外」の人生を生きているからである。天才たちがひしめきあう中、依然としてトップを走り続けていることに、人々は、何か桁外れのものを感じているのである。
著書や対談の言葉から見えてくるのは、羽生は徹底した過程主義者であり、結果(勝負)よりも、明らかに過程のほうに関心が強いという点である。マイナスの事象を含め、出会うことすべてを楽しみ、そこから得られる知見を自己の財産として蓄積することに無上の喜びを感じる。
羽生はいう。「1回1回の対局は、未知の旅に出る、知らない何かを探しに出発する──私はそんなイメージを抱いて指している」「将棋は2人で指すものなので、相手との駆け引きの中で自分を表現していく。その意味では、相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえる」(『決断力』、角川書店)。
将棋とは、未知な何かを探す知の旅であり、2人の作者による芸術的コラボレーションである。坂田三吉の時代の棋士には想像できない、過程主義者としての、明るくポジティブな将棋観が、そこにはある。
おそらく、羽生が長期にわたってトップに君臨してこられたのは、「斬るか斬られるか」という修羅場さえも、そうした「楽しい過程」へと変換できてしまう、知識人としての資質の高さゆえではないかと思う。イチローにも通じるが、結果を生むための手段ではなく、自己実現への過程としてそれを楽しめる人間だけが持てる特別な「強さ」が、羽生にはあると思うのである。
もちろん勝負の世界は厳しい。知だけで克服できるほど、そのプレッシャーが甘いものでないことは、WBCにおけるイチローの苦悩ぶりを見ただけで十分にわかる。当然ながら、羽生とて、その埒外にいるわけではない。
タイトル戦などの大きな対局の終盤、ミスが許されない一手を指すときに、羽生の右手が震えるという話はつとに有名である。7冠を手に入れ、タイトル獲得が70期を超える彼にして手が震えるという、その世界の苛烈さ。しかし、その苛烈さこそ、まさに彼の知的好奇心を刺激し続けているものであることもまた確かなのだ。