新聞にも報じられた“蔑称”

松江滞在時、八雲は松江では有名人であった。なにしろ、島根県ではもっとも優秀な生徒が集まる中学校の外国人教師である。かつ月給も100円という高給取りだ。もう道を歩いているだけで目立つし、訪問してくれれば店でもなんでもそれだけで鼻が高い。いわば、土地の名士であり大スターだ。

こうした「洋妾」という蔑称は、新聞報道にも表れている。当時発行されていた「山陰新聞」は、八雲の動向を執拗に追いかけていた。それも重要な出来事だけではない。なんでもいいから八雲に関する話題を掲載しておけば読者が喜ぶとばかりに、些末なことまで記事にしていた。

例えば1890年11月18日付では、八雲が寺社に参拝した際にきちんと賽銭を出して祈る理由を尋ね、さらに西田千太郎の見舞いに出かけたことまで報じている。1891年7月26日付では、八雲が関西旅行に出かけただけで記事にした。

これほど細かく八雲のプライバシーを書き立てていたのだから、結婚となれば当然大きく報じるはずである。ところが「山陰新聞」は完全に八雲とセツが結婚したとは考えていない。1891年6月28日付の記事では、八雲が研究熱心なために月給100円は毎月不足が出るくらいまで使いきっていることを記した後にこう書いている。

またヘルン氏の妾は南田町稲垣某の養女にて(中略)

完全に妾扱い。これはおそらく、八雲とセツが現在旧居として公開している家に引っ越したのを受けて、記事にしたものだろう。夫婦になって新居に引っ越した八雲らに向かって、半ば嘲笑しているふうにも感じられる。

“「ばけばけ」モデル 小泉八雲の妻セツ
「ばけばけ」モデル 小泉八雲の妻セツ(写真=Nippon.com – Infos sur le Japon/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

世間は“本当の夫婦”と見ていなかった

その後も1891年8月15日付の記事は「ヘルン氏が京阪地方漫遊として愛妾同道昨日出発したり」と、妾扱いを止めない。しかも、その後、八雲が熊本を去る日までセツのことに触れられることは一度もない。

おかしな話である。

セツが女中から妻になったと聞くと、なし崩しに同棲から夫婦同然になったように感じるかもしれない。しかし実際には、八雲はきちんと儀式を行って妻に迎えていた。

1891年8月、八雲は友人のペイジ・エム・ベイカに宛てた手紙で「日本風に結婚したばかりだ」と書いている。盛大な披露宴を開いたわけではないだろうが、媒酌人を立てるなど、なんらかの形で正式な婚姻の儀式を行ったことは間違いない。

にもかかわらず、世間はそうは見ていなかった。

あくまで愛妾、洋妾。没落した士族の娘が、女中から巧みに先生に取り入ったのだと邪推していたのだろう。そして、おそらく人々がもっとも口にしていたのは、こんな噂である。

「あの二人、まんだほんまの夫婦じゃないげなわ」

噂は事実であった。松江にいた時点で、二人は入籍していない。八雲は一家を構え、セツの家族に経済的援助までしているが、法律上は同棲に過ぎなかった。二人が戸籍上の夫婦になったのは、1896年2月に、八雲が小泉家に入り婿してからである。

これはどういうことか。八雲! お前は、そんなにいい加減な男だったのか‼‼

そうではない。八雲はセツのことを思えばこそ、入籍ができなかったのである。