バラエティ番組「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(1989~96年、日本テレビ系)は、いまでも「伝説の番組」として語り継がれている。どこがすごかったのか。社会学者の太田省一さんは「テレビバラエティ史上、これほど無茶をやった番組は思いつかない。それゆえ芸人の魅力が随所で光っていた」という――。
自ら監督した映画の公開初日の舞台あいさつの後、記者会見するビートたけし(北野武)さんは「トーク番組など目が気にならないものは来月からやるかもしれない」と語る。左は森昌行・オフィス北野社長(1995年2月11日、東京・新宿・テアトル新宿)
写真=時事通信フォト
自ら監督した映画の公開初日の舞台あいさつの後、記者会見するビートたけし(北野武)さんは「トーク番組など目が気にならないものは来月からやるかもしれない」と語る。左は森昌行・オフィス北野社長(1995年2月11日、東京・新宿・テアトル新宿)

「お笑いウルトラクイズ」がコンプラ時代に問いかけるもの

いまやコンプライアンス(以下、コンプラ)に配慮することなく、テレビバラエティは成立しない。むろん過去のバラエティ番組もまったくコンプラ(という言葉はなかったが)に配慮しなかったわけではない。だが『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』は例外だ。ここまで“コンプラ無視”を貫いた番組も珍しい。どのような番組だったのか?

『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(以下、『お笑いウルトラクイズ』)は、ビートたけしがメインのバラエティ特番。タイトルは、同じ日本テレビの名物クイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』からとっている。そのスタイルに倣い、設けられたいくつかの関門を突破し、最後に残ったお笑い芸人が優勝となる。

テレビバラエティ史上、これほど無茶をやった番組はほかにあまり思い出せない。

いちおう「クイズ」と銘打ってはいるが、それも名ばかり。恐怖におびえ、苦悶の表情を浮かべながら過酷な状況を必死で乗り越えようとする芸人たちの奮闘ぶりを笑って楽しもうという番組である。

ビートたけしの色が濃く出た番組

好評を博し、1989年から1996年まで計16回も放送された。ただあまりの過激さに視聴者からのクレームも殺到した。コンプラの意識が緩かった当時においてさえそうだったのだから、いかにこの番組が規格外だったかがわかる。

この番組にはテリー伊藤(伊藤輝夫)も加わっていた。

おバカタレントとして有名だったたこ八郎に東大生の血を輸血したらIQは上昇するか? といった無茶な企画でディレクターとして注目された伊藤は、1980年代に入って『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』で一世を風靡する。『お笑いウルトラクイズ』は、同じたけしとのコンビである。

ただこの番組では、テリー伊藤は企画・構成での参加で演出には携わっていない。伊藤の真骨頂は、企画力ももちろんだが、妥協を許さない演出にあった。その意味では、『お笑いウルトラクイズ』は、『元気が出るテレビ‼』以上にビートたけしの色が濃く出た番組だった。