日産の「絶対的権力者」がその座を追われたのはカルロス・ゴーン氏が初めてではない。かつて自動車労連の会長として日産の経営を牛耳った塩路一郎氏という人物がいた。塩路氏のもとで、名もなき多くのミドルの人生が犠牲になった。元豪州日産社長の古川幸氏もその1人だ。古川氏が過ごした“地獄の日々”を『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)から紹介する――。

※本稿は、川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

2300枚のファイル(撮影=石橋素幸

元子会社社長が過ごした地獄の日々

日産圏の労組である自動車労連の会長として23万人の頂点に君臨しながら、生産現場の人事権、管理権を握り、日産の経営を壟断(ろうだん)。生産性の低下を招き、コスト競争力でトヨタに大きく水を空けられるに至った元凶である絶対的権力者・塩路一郎を倒し、日産のゆがんだ労使関係を正常化させる――。

日産の広報室の一課長であった私が、同じ30~40代の同志の課長たちと打倒塩路独裁体制に向け、極秘で地下活動を開始したのは1979年のことだった。塩路一郎に関する情報を収集するなかで、私は1つ上の世代のある人物のことを知った。

元豪州日産社長の古川幸さん。塩路一郎の異常なまでの復讐心の的となったことで、日産での人生を奪われ、奈落の底へと突き落とされた経験の持ち主だった。

古川さんの息子さんも日産に勤めていた。地下活動を開始した翌年の1980年4月、私は息子さんを介して連絡をとり、面会を申し込んだ。そして、その地獄のような日々の話を聞き、塩路一郎という人間の恐ろしさに身を震わせることになる。

「今すぐここへ奥さんを呼びなさい」

横浜に住む古川さんから、落ち合う場所として指定されたのは、港の見える丘公園のふもとにあるホテルのティールームだった。席について待っていると、1人の年配の男性が少し離れた席から私のほうをしきりに見ていた。そして、ふと立ち上がり、近づいてきて、「古川です」と名乗った。

私を観察していたのは、実は塩路側の回し者ではないか、確認したようだった。それほどの警戒ぶりに驚かされた。

私は古川さんに思いのたけを語った。今の塩路体制が続く限り、日産に明日はない。これをなんとしても倒したい。それにはどう戦えばいいのか、塩路一郎をよく知る立場からアドバイスをしていただきたい。

まわりの耳もあるので、外では話せないことなのだろう。古川さんは私をご自宅へといざなった。

「君、今すぐここへ奥さんを呼びなさい。君は今、どんなに危険なことをやろうとしているか、わかっているのか。絶対やっちゃいかん。すぐ奥さんを呼ぶから電話番号を教えなさい。君にやめるよう、奥さんから説得してもらうから」

ご自宅に上がるなり、古川さんは目の色を変えて忠告し始めた。「いえ、やめるわけにはいきません」。私が決意を語ると、古川さんの奥さんまで出てきて、「絶対やってはいけません。主人がどれだけ大変な思いをしたか、ご存じですか」と、これまでの出来事をとつとつと語り始めたのだ。