プレジデント誌の対談連載「弘兼憲史の『日本のキーマン解剖』」。今回のゲストは「東進ハイスクール」の創設者、ナガセの永瀬昭幸社長。永瀬社長は「東大を出ても活躍できていない人が3分の1ぐらいはいる」「受験の点数がどれだけ高くても、エゴイストである人はリーダーになれない」と話す。その理由とは――。

5000万を元手に東進ハイスクール誕生

【弘兼】「東進ハイスクール」が入ったナガセ本社は吉祥寺、僕の家のすぐ近くですよね。

【永瀬】ええ。今日の対談も吉祥寺でやろうと思ったのですが、先ほどまで京王プラザホテル(新宿)で社員研修会をしていました。新宿までご足労いただきありがとうございます。

ナガセ 社長 永瀬昭幸(ながせ・あきゆき)
1948年、鹿児島県生まれ。東京大学経済学部在学中に学習塾を開校。74年野村證券入社。同社退社後、76年にナガセ設立。85年「東進ハイスクール」を創設。88年株式を店頭公開。生徒数約30万人を擁する日本最大規模の民間教育機関を率いる。

【弘兼】現在の前身となる塾を永瀬さんがはじめたのは、東京大学在学中の3年生のとき。当時から起業家だったのですね。

【永瀬】自分から望んで起業したわけではありません。当時、実家からの仕送りがストップしてしまって。

【弘兼】どうしてですか?

【永瀬】大学2年生のとき、ラ・サール高校(鹿児島)時代の先輩が通っていた大学で退学処分を受けました。話を聞いてみると、明らかに不当。「義を見てせざるは勇なきなり」と反対運動をしていたら今度は私が留年してしまった。それを知った父親がえらく怒ったのです。

【弘兼】それで、自分で生活費を稼がなくてはならなくなったと。

【永瀬】最初は家庭教師で3人くらい見ていました。1人あたり週2回、2時間の授業だったのですが、お金を貰っているのだから、きちんとやらないと気が済まない。そうなると2時間でおさまらず、ひどいときは夕方5時から食事の時間をはさんで夜中の1時、2時まで授業を続けることもありました。

【弘兼】徹底的に教えていたのですね。

【永瀬】ええ。それで評判になりました。ほかの家から来てくれと頼まれたのですが、断っていたほどです。その延長線上で塾をやってみませんかという話がきました。

【弘兼】それが東進の前進ですね。最初はご兄弟ではじめたとか。

【永瀬】ええ。東大に通っていた弟、さらにラ・サール時代の後輩と一緒にはじめました。その後輩とは、今の農林中金副理事長の宮園雅敬。そして宮園君が次々とラ・サール出身の優秀な仲間を連れてきた。元財務省理財局長でTPP総括官だった佐々木(豊成)君やANA社長の片野坂(真哉)君らもいました。

【弘兼】錚々たる面子ですね。

【永瀬】そういう優秀な人間が教えると、やはり評判はよくなります。

【弘兼】でも、勉強ができるのと教えるのは勝手が違うのではないですか。

【永瀬】いやいや、そのレベルの連中は勉強もできますが、人間的にも魅力があります。だから生徒はみんな先生のことを慕っていましたよ。

【弘兼】その後、永瀬さんは大学を2年留年し、卒業。野村證券に入社するも、たった2年で退社します。

【永瀬】あるお客様から、「君は将来何をやりたいんだ」と聞かれました。私が「野村(證券)の社長を目指している」と答えると、「君はここの社長になるよりも自分でやったほうがいい」と。その方は株で資金に余裕があった。それで、「ここにある5000万円を貸すから何かやりなさい」と言ってきたのです。

【弘兼】1970年代半ばの5000万円ですから、今の価値ならば何億円というお金ですね。

【永瀬】5000万円という大金を借りるとなると、返済するためにも絶対に成功させなければならない。そこで、野村を辞めて、三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に勤めていた弟にも声をかけ、一緒に事業をはじめました。