処刑人と結婚することで処刑を免れるケースも

刑吏は結婚も同業者同士の家系で行わなければならなかった。処刑人の家系はフランスではサンソン家が有名であるが、スイス、ドイツでも代々同じ家系で継承され、アングストマン(処刑人)、ドルヒャー(殺し屋)、フォルテラー(拷問吏)、テュヒティガー(懲らしめ屋)などと呼ばれた。

処刑人の飼っている動物ですら、牧場のそれと接触させてはならなかった。処刑人が死んでも、名誉ある人はその棺桶に触れると穢れるといわれてきた。

名誉を失った処刑人の身分とかかわるが、処刑される未婚の女性は、処刑人と結婚する場合にのみ命を救われた。これは都市法が定めた決まりであった。ただし二人は町を去り、女性は処刑人と同様に名誉を失った者として一生過ごさなければならなかった。しかし結婚難に悩む処刑人と、死を逃れたい女性の思惑が一致することがあり、結婚のケースはないわけではなかった。

たとえば1550年に、二人の処女が処刑されそうになったが、魅力的な女性だったらしく二人とも処刑人と結婚し、そのひとりは花嫁姿で人びとの前にあらわれた。当局は16世紀からこの法を廃止しようと試みるが、市民感情がそれを阻止し、1834年と1864年に、ドレスデンとマールブルクで処刑人と死刑囚が結婚した最後の事例がある。

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報復を恐れ、ヘルメットを着用

処刑人は差別されていたにもかかわらず、都市の公的な秩序維持のために不可欠な職業であった。とくに公開処刑の花形であり、かれらは派手な衣装で処刑場に登場した。

各都市それぞれの衣装が定められ、1543年のフランクフルトの衣装令では赤、白、緑の色によって、他の市民と区別している。特徴的だったのはミ・パルティという縞模様であり、これはフランスのパストゥローが『縞模様の歴史』で指摘しているように、目立つ色であったのみならず、排除され差別された人びとの服装の定番であった。

事実、死刑執行人が二人の助手を連れ、正装して処刑場に向かうところを描いた図が残っている。白黒では服の配色がわからないが、彩色版では派手な黄色の羽根、青い服、赤いマントと帽子という出で立ちである。

処刑人がヘルメットを着用したり、逆に死刑囚に目隠しさせたりする場合もあった。死刑囚の恨みを買わないようにするためである。ローテンブルクの「中世犯罪博物館」には、このヘルメットが展示されているが、処刑人が怨念による報復を恐れていたことがわかる。なおプロイセンで処刑人の名誉が認められたのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世(1770~1840)時代の1819年であった。