70年前から騒がれ続けてきた
つい最近書かれた文章だと思われるかもしれないが、そうではない。70年近く前、1956年4月6日の「朝日新聞」朝刊の連載「危機に立つ民主主義」の4回目として、一橋大学教授の経済学者・都留重人氏が寄せた「驚く心こそ必要」と題した文章の一節である。サブタイトルに「ひどすぎる政治とカネの悪縁」とあり、次のように分析している。
裏金事件をめぐる警句として、どこかの新聞の社説に先日掲載された、そう言われても驚かない。政治にはカネがかかる、その「常識」は世間離れしてしまい、有権者の政治不信が増大する、そんな説明が、昨今のテレビやネットでもたくさん見られる。
戦後はじめての経済白書を35歳で執筆し、のちに一橋大学の学長を務める大物経済学者の都留氏をして、「悪循環」と言わしめた「政治とカネ」は、なるほど、その記事の副題のように「悪弊」と言うほかないように思われる。
「政治にカネの問題はつきもの」という冷めた認識
あるいは、この都留氏の記事から11年後、1967年4月6日の「読売新聞」朝刊は、「なぜやらない “政治とカネ”の浄化」と大見出しを掲げ、「“政治とカネ”の関係をはっきりさせたいとは世論の大勢」とし、評論家ら3氏の意見によって、自民党の姿勢を非難している。
その8年後・1975年には、田中角栄の金脈問題を受けて、政治資金規正法が改正され、翌年にはロッキード事件により田中氏が逮捕される。さらに13年後の1989年のリクルート事件とともに、「政治とカネ」をめぐる「悪弊」の最たるものとして、今もなお語られている。
約70年にもわたって取り沙汰されてきた「政治とカネ」は、まるで日本政治の慢性的な病のように映る。逆に言えば、それさえキレイにできれば、政治不信も何もかも解決し、薔薇色の未来が待っているかのようでもある。
一方で、政治思想を専門とする野口雅弘氏によれば、「政治とカネ」は、日本固有の問題でなく、古代ギリシャの時代にまでさかのぼる、という。野口氏は、「政治にカネの問題はつきもの、というさめた認識を持つことも大事」と強調している。古今東西を問わず、「政治とカネ」は付いて回る以上、あくまでも程度問題だ、というのである。
おそらくマスコミは、その「程度」を肌感覚でわかっているのではないか。日々、政治家と接し、カネの話をしているのだから、誰が本当にカネに執着しているのか、よく知っているのではないか。それなのに、なぜ、マスコミは、昔から今に至るまで、延々と「政治とカネ」で盛り上がるのだろうか。