「男性の軽視」が感じられる表現

どちらも、一見すると、別れた後も元夫をおもんぱかっている。大事な存在であり、別離は夫婦のすれ違いの結果に過ぎない。どちらが悪いわけではなく、ありがちなものなのだ、と。そうした見解ととらえられるのかもしれない。

「手を繋いで、離婚届を出」すのは、ブログでの彼女の表現によれば「こういう離婚もあるんだよ」のひとつなのだろう。夫婦生活を長く続けていても、あるいは、続けているからこそ、「手を繋いで」歩く機会がめったにない(私のような)夫婦もいる。それに対して、離婚する際も、いや、そういう場面だからこそ、あえて「手を繋いで」いくのは、麗しいと評せよう。

写真=共同通信社
「ビリギャル」のモデル・小林さやか氏

それでも、「手を繋いで」と(わざわざ)書く必要は、どこにあるのだろうか。円満さを強調したいのだとしても、その直後に「いつも誰よりもわたしの気持ちを理解して、支えてくれた彼に、いっぱい感謝しています」と褒めるのなら、なぜ別れるのだろう。そこまでの感情があるのなら、一緒にいれば良いのではないか。

いや、そう難癖をつけたいわけではない。

彼女のこうした表現は、今回の離婚の報告にも通じており、そこに元夫たちへの視線、ひいては、男性の軽視を感じてしまうのである。

配慮しているようで、ばっさりと切り捨てている

今回の離婚報告で、私が最も違和感を覚えたのは、次のくだりである。

ニューヨークにいる彼を見て、やっぱり彼には住み慣れた環境とコミュニティの中で、彼の能力を活かした仕事をまたしてほしいと思った。憧れだったニューヨーク生活だって、実際に住んでみたら思っていたのと違ったこともたくさんあっただろうし、彼の気持ちもいろいろ変わった部分もあったようだった。

この文章での彼=元夫が、本当にどう思っていたか、は、他人にはわからない。それよりも、「住み慣れた環境」や「憧れだったニューヨーク生活」といったところからは、思いやりよりも、憐れみが感じられるのではないか。自分(小林氏)は、「住み慣れ」ていないにもかかわらず、ニューヨークに慣れて、世界のトップ大学=コロンビア大学で修士課程を終え、当地での生活を続ける。その傍らで、16年勤めた会社を辞めて同行してきた元夫は、2年で日本に戻る。

「ニューヨークにいる彼」は、「彼の能力を生かした仕事」はできなかったし、これからもできない。その判断は、「彼」に配慮しているようで、その実、ばっさりと切り捨てているのではないか。