淀殿が家康を恨んだ動機が小さすぎる

ワースト4には淀殿こと茶々の描かれ方を挙げる。北川景子は好演したが、ドラマに敷かれた伏線が、それをぶち壊してしまった。

第47回「乱世の亡霊」で、茶々の妹の江(マイコ)が姉の心中を家康に語った。茶々は母の市から、家康は「わが身の危険も顧みず、人を助け世に尽くすお方」と聞かされ、家康への憧れを抱いていた。だが、再婚相手の柴田勝家(吉原光夫)とともに北ノ庄城に籠った母が、羽柴秀吉(ムロツヨシ)に攻められた際、家康は助けに来てくれなかった。このため家康に恨みを抱き、抵抗し続けたというのである。

茶々が助けに来ない家康を恨んだことは、彼女が北ノ庄城から救出される場面でも仄めかされた。が、そもそも市が家康の助けを待ったはずがない。天正10年(1582)10月、秀吉が信長の三男の信孝を担ぐ勝家と対立し、信長の次男の信雄に織田家の家督を継がせるクーデターを起こした際、家康は秀吉宛ての書状で祝意を表した。すなわち、家康はこの時点で「勝家=市」と敵対し、助けるうんぬん以前の話だったのである。

ここでも大坂の陣という戦国最後にして最大の合戦に至った原因のうち、大きな部分が個人の思いに帰せられ、もっと大きな思惑や人知を超えた波が見えなくなってしまった。

築山殿の設定がすべてを狂わせた

ワースト3は家康の正妻で、有村架純が演じた築山殿(ドラマでは瀬名)である。その影響の大きさを考え、ワースト1にすべか迷ったが、後述する理由で3位にとどめた。

家康と築山殿は、少なくとも元亀元年(1570)に家康が岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)へ居城を移してからは、不仲だったと考えられている。築山殿は岡崎に留まり、死ぬまで家康と別居したからだ。ところが「どうする家康」では、家康と築山殿は最後まで仲睦まじく、家康はあらゆる点で彼女の影響を受けた。

築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その最たるものは、第24回「築山に集え」で描かれたファンタジーだった。築山殿は家康の嫡男で彼女が生んだ信康(細田佳央太)とともに、彼女が暮らす岡崎の築山に、宿敵である武田氏の重臣ほか複数の要人を呼び寄せていると家臣が察知。妻子が宿敵とつながっているのが信長に知られたら大変だと、家康たちは築山に踏み込んだ。

そこで築山殿は、戦の虚しさ語ったうえで、「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦は起きない、というのだ。それは現代の視点では理想でも、領国の境界が常に脅威にさらされ、戦わなければ敵の侵攻を許し、戦う意志を示さなければ、傘下の領主たちはすぐに離反してしまう戦国の世においては、ファンタジーにすぎない。

ところが、あろうことか家康も重臣たちも築山殿のファンタジーに共感し、受け入れるのである。だが、結局は、築山殿と信康が武田に通じていることが信長に知られ、信長は2人に死を強いる、という展開だった。