芸名は「三笠静子」だったが宮家と同じ名前になり変更

笠置の初舞台は昭和2年(1927)の「日本新八景おどり」のレビューで、岩に砕ける水玉だった。芸名は近所のもの知りが、三笠静子みかさしずことつけてくれた。

踊りの素養があるため舞踊専科に配属されたが、笠置は後年、自分の小さな体から舞踊は不利だと悟り、歌に転じることとなった。

それにつれて芸名も、笠置シズ子と改めることとなった。一つ大きな理由として、天皇陛下の弟宮である澄宮すみのみやが「三笠宮家」を創設したため、それに配慮してのことでもあったという。

「好かんな、あの子、少女歌劇の夢も美もあらへんわ。ガサガサで、えげつのうて、厚かましうて……」(自伝より)

笠置はしょっちゅう声をつぶしていたが、どうやら彼女の舞台を観て、一部のファンの中には、そんなことを思う人もいたようである。

入団当初、カン高い声でがむしゃらに歌っていた笠置だけに、年じゅう声をつぶしていた。のどに包帯を巻いているのがトレードマークのようになっていた。

そんな笠置も、声楽専科に転じて歌うようになると、これが思わぬ健康法になったようだ。それまでは2週間の公演では、のどのみならず体力的にも持たなかったが、とても丈夫になったのである。

「笠置君は頭のてっぺんから声を出していた」と言った服部良一

この頃の笠置について、服部良一の次のような証言もある。

服部良一〔毎日新聞社「毎日グラフ」(1950年5月10日号)より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「私が知りめた頃の笠置君は頭のてっぺんから声を出していた。地声で歌うようにいったが『ラッパと娘』などもまだ三オクターブくらい高かった。だから初日になると声をつぶして医者にかかり、いつも筆談で用を足していた。それが段々地声がイタにつくとともに咽喉が丈夫になった」

服部は、「先進諸国の人のように肉体的に生活文化的に声のボリュームが望めるならかく、日本人が『つくった声』を出していると滅びるのが早い」という考えの持ち主であった。あわせて、エンターティナー、歌手としての笠置に対する服部の評価を引用してみたい。

「……彼女は鮮烈なパーソナリティと自己演出とを合わせて一本になる歌手である。歌そのものからいえば、もっとうまい人がいくらでもいた。だが、いろいろなものを合わせると彼女ほど大衆の心理をつかむ歌手はいない」
「……洒落しゃれたところで洒落た人たちだけに洒落た歌を聞かせるたぐいの人ではない。あくまでもゴミゴミした街の中で、大衆の灯となって歌う陋巷ろうこうの歌い女である。そこに彼女の生命があり、魅力がある」

陋巷とは、「狭く汚い路地。貧しくむさくるしい裏町」のことだ。当時、笠置は服部からよくいわれたそうである。

「君の声は色気がないな。電話で、わて笠置だす、といわれるとお座がさめるよ」