「影武者」を使ってファン対策をしたことも
大輔の投げる姿を初めて見たのは年明けの1999年1月、西武第二球場で行われた新人合同自主トレの時だった。キャッチボールの球の強さがほかの選手とはまるで違う。体幹の強さもはっきりと見て取れた。ただ、足首などの関節の硬さは気になった。実際、この硬さは現役後半の大輔を苦しめ続けた。
キャンプには、見たことのない数のファンと報道陣が詰めかけた。大輔のグラウンドコートを着た「影武者」を走らせてファンを引き付け、その隙に本人やほかの投手陣を移動させたこともあった。大輔には「西崎幸広を手本にしろ」と伝えていたが、影武者のアイデアは西崎によるものだったらしい。
キャンプを通じて、気になるクセを段階的に修正しつつ、なんとか一軍で投げさせられるレベルにまで持ってくることができた。ただ、疲れもあってかオープン戦では精彩を欠き、与えたホームランも四球の数も多かった。これで一軍ローテーションに加えては、誰の目にも優遇したのが明らかになってしまう。畢竟、ローテーションを争うほかの投手たちの士気も下がってしまうだろう。
ラストチャンスは3月28日、サントリーカップ(オープン戦)の対横浜戦だった。先発して6回2安打1失点、6四球は問題にしても11奪三振はさすがの一言、「競争の中で勝ち残らせる」という公約を果たしたといえる内容だった。
「なんとか勝ち星でスタートさせてやりたい」
さて、問題はいつ投げさせるかだ。
球団からは「西武ドームでの福岡ダイエーとの開幕2連戦で投げさせたい」という要請もあった。開幕投手の西口文也に続く第2戦目では、前日が勝ちでも負けでも、新人にはプレッシャーが大きすぎる。私自身は負けて負けて負け続けて成長したピッチャーだったが、大輔は常に「松坂世代」のトップランナーであっただけでなく、世代を超えて日本中が見守る大スターだ。「何とか勝ち星でプロ野球人生をスタートさせてやりたい」と思って選んだのが、開幕第4戦、東京ドームでの日本ハム戦だった。
傾斜が大きい東京ドームのマウンドは本格派投手向きで、4試合目ともなれば相手投手の力量も落ちてくるという読みもあった。とはいえ当時の日本ハム打線は小笠原道大、片岡篤史、田中幸雄、マイカ・フランクリンといった錚々たる強打者を並べる「ビッグバン打線」で、高卒新人投手にとってはあまりにも高いハードルだった。
あとから聞いた話だが、その中心にいた片岡と、西武で代打や指名打者として活躍していた金村義明が試合前日に食事をした時、片岡はこう言ったという。
「しょせんは高校生、スライダー投手じゃないですか。明日は血祭りにしてあげますよ」