政治に翻弄された豊国大明神
もちろん、秀吉も神になった。先に「太政大臣であった秀吉が豊国大明神として祀られた」と記したが、ただ、秀吉の場合はさらに数奇な変遷をたどっている。
秀吉は家康よりもっと明確に、死なずにそのまま神になることをめざし、まったくあたらしい社殿を造営させて、そこに鎮座した。しかし、必ずしも希望どおりではなかった。
秀吉は死後に、源氏の氏神で武運の神として崇敬されている八幡神になること願い、「新しい八幡(新八幡)」になろうと望んだ旨は、宣教師たちが記したイエズス会日報などにも記されている。しかし、秀吉が慶長3年(1598)8月18日にこの世を去ったのち、神にはなったが望みどおりの新八幡にはなれず、豊国大明神になった。
その理由はいくつか指摘されているが、ここでは家康とからむ以下の事情を挙げておこう。前出の野村氏の言葉を借りるとこうなる。
家康は秀吉が死ぬ前後、自身の姓を秀吉から賜った「豊臣」から「源」に改姓しようとして実現したが、「家康は秀吉に新八幡になられてしまうと困ったのではないか。なぜなら、秀吉自身が八幡神の一系列として源氏の氏神に連なってしまうからであり、家康は秀吉の死後も氏神として秀吉に従属せねばならなくなるからである」(『豊国大明神の誕生』平凡社)。
そして、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したのちは、江戸幕府は豊国大明神の神号を剝奪して、その祭祀も封印してしまったが、明治維新を迎えると、新政府は秀吉を天皇の臣下として戦乱の世を終わらせ、さらには海外にまで日本の国威を発揚した人物と評価したので、豊国大明神はよみがえった。
神をめざしたりすると、神になる前にも他人の思惑に左右され、なったのちも権力に翻弄され、ろくなことはないと思うが、戦国三英傑ほどの人物は、「神」になって生き続けたいと願ったのである。
「予自らが神体」と言った信長
では、織田信長はどうだったか。イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが記した『日本史』(松田毅一、川崎桃太訳)から、安土城を築いてのちの信長についての記述を引用する。
「彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った」
そして、信長は安土城を築いた安土山内に摠見寺を建立し、礼拝すれば功徳があると主張したばかりか、「予が誕生日を聖日とし、当寺に参詣することを命じる」など書き記したという。さらに『日本史』にはこう書かれている。
「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。それは、神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。
しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、ある人物が、それにふさわしい盆山と称せされる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、そこにその石を収納するように命じた。
さらに彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、集落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賤民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた」