信長だけは神になれなかった
フロイスの記述は、日本の政治的な利害関係から離れた立場にいただけに、宗教がからまないかぎりは比較的、中立的だと思われる。ただし、こうして宗教がからむと少々ヒステリックな様相を帯びる。ここで信長を悪し様に表現しているのも、ひとつの神しか認めないカトリック教徒としての立ち位置があってこそのものである。
とはいえ、信長が自らを礼拝の対象にしようとした、すなわち、生きながらにして「神」のようになろうとしたこと自体は、否定できないだろう。信長の自己神格化について、日本側の資料に書かれていないことから、フロイスの記述の信憑性を疑う研究者もいる。だが、フロイスが話を捏造する動機は薄い。
あるいは、信長は宣教師たちを徴発する意味も込めて、彼らに自身の神格化について語っていたのかもしれない。
ちなみに、『イエズス会日本年報』には、安土城天主にも「盆山の間」があって、信長を神格化する行事が行われていた旨が記され、「盆山」の存在自体は『信長公記』にも記載されている。
しかし、死後に神になろうとした秀吉と家康は、すべてが本人の狙いどおりではないにせよ、神になった。しかし、生きながら神になろうとした信長は、本能寺の変によって、自己神格化の道もまた、途絶えてしまったのである。
生きながら神になろうという「驕り」には、宣教師でなくても反発を覚える人が多かったのではないだろうか。信長がもう一歩のところで天下統一を成し遂げられなかった原因は、こんなところにあるのかもしれない。