大阪桐蔭が1学年20人前後の精鋭しか入部を許さないのは、寮の部屋に限りがあることに加え、選手の進路を差配する上で限界の人数であるからだ。

西谷は大学野球にも精通し、戦力を西谷なりに分析して、大阪桐蔭のひとりひとりに対し、最も活躍の場が期待できる大学を提示していく。在学生だけでなく、行き場を失ったOBの大学生のために、社会人のチームと掛け合うこともあるという。

西谷は選手を預かる保護者に対しても、配慮を欠かさない。藤原の父・史成が証言する。

「息子は左肩の関節唇損傷で、ボールが投げられない時期があった。ケガが落ち着いて、ようやく試合に出られるようになった時、西谷監督から電話があり、『本当はもう少し休ませたいんですが、無理を強いてすみません』と。驚きました。ここまでしてくれる指導者が他にいるでしょうか」

“高校野球のヒール”にあった「数年先を見据えたチーム作り」

西谷は98年の監督就任からこれまで春夏の甲子園に8回ずつ出場し、わずか9敗しかしていない。

甲子園の盟主となった大阪桐蔭の憎たらしいぐらいの強さに、全国から溜息がもれるのも仕方ないのかもしれない。

それでも西谷は、高校野球の“ヒール”として、冷ややかな視線を浴びながらも、耐え忍び、数年先まで見据えたチーム作りに奔走しているのだ。(文中敬称略)

〈全2回の2回目・完/#1から続く〉

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