ライバルの存在が和平提案につながった

どうであろうか。これは、頼朝からの和平提案というべきものだ。是が非でも平家を滅亡に追い込むぞという執念は感じることはできない。

なぜ頼朝は、このような提案を行ったのか。それは、当時、信濃国から打って出た木曽(源)義仲が北陸地方にまで進出し、勢力を拡大させていたからである。

義仲も「自分こそ源氏の棟梁」であると考えて、勢力を伸ばしてきていた。一方の頼朝も同様だった。義仲を何とか出し抜きたいという思いが頼朝に募り、平家との和平提案につながったのである。

もし後白河法皇が頼朝の提案をのんだら、頼朝は源氏の棟梁として、朝廷に公認されることになる。それは、木曽義仲はじめ諸国の源氏よりも、頼朝が上位に立つことを意味した。頼朝にとっては、平家を滅亡させることよりも、源氏のなかで主導権を握ることの方がまさっていたのだ。

しかし、和平の実現は幻に終わる。平清盛亡き後に後継者となった平宗盛が拒否したからだ。

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書状を使って武将たちを叱咤激励する

頼朝というと征夷大将軍とのイメージからか、常に戦場にあった武将と思われるかもしれない。『吾妻鏡』には、石橋山の戦い(1180年)の時に、頼朝が「百発百中」の弓の腕をもって、敵兵を次々と殺したと記されている。もちろん、美化・誇張されている面もあるだろうが、頼朝もそれなりに武芸に秀でていたと推測される。

しかし、実戦の経験というとその戦いぐらいで、その後は出陣しても最前線で自ら戦うことはなかったと考えられる。ほとんどは、鎌倉にどっしり構えて、家臣に実戦を担当させていた。

木曽義仲との戦も、親族の源範頼・義経らに担当させているし、平氏討伐戦(一ノ谷・屋島・壇ノ浦合戦)も彼らや御家人に任せている。とはいえ、何もしないのではなく、平氏討伐のために出陣した武将らに対し書状を送ることで、家臣を指導していた。

例えば、源範頼には「九州の者どもは従わないわけではないと思う。だから、もっと自信を持って、思うように行動せよ。騒がず、落ち着いて対応すれば良い。現地の人々に憎まれないようにせよ」(『吾妻鏡』)とアドバイスしている。

また、別の際には「関東から出陣している御家人たちを全て大切にせよ。中でも、千葉常胤つねたねは老骨に鞭打ち、戦の旅に耐えていることは、とても素晴らしいことだ。誰よりも大事にするように。今までの常胤の手柄には、生涯かけても返しつくせない程の恩がある」と源範頼に書き送っている。

思いやりある言葉である。頼朝の言葉を聞いたら、常胤は泣き出したのではないか。

もちろん北条義時、小山朝政ら御家人にも丁寧な手紙を送ったという。常胤に対する言葉とニュアンスとしては同じことを書いたように思う。義時らは感激し、粉骨砕身、頼朝に尽くそうと感じたはずだ。