自らもプレーヤーとして500の会社の経営に携わった

2つめは「ヨーロッパの資本主義経済を“自らの目”で見た」こと。一橋慶喜に仕えた後、パリ万国博覧会の使節団の一員として渡仏します。そこで「信用」によってお金が回り、産業や経済が成長していく資本主義の仕組みを知り、衝撃を受けます。

1867年のパリ万国博覧会には、将軍徳川慶喜の弟・昭武や薩摩藩の家老・岩下方平らが派遣された。日本の軽業師も参加し場をわかした。

幕末の志士たちはもともと、政治改革により日本をよくしたいと考えていた人たちでした。このため、明治維新後は、その多くが政治家になりました。しかし、ヨーロッパでの見聞をもとにして、渋沢だけは、経済こそが近代化の基盤であると見抜いたのです。そこで彼は、日本に資本主義や実業界を導入し発展させることに邁進します。

発展途上国が急速な近代化を目指す場合、国が政策的に特定の産業の成長を促し、資本を集中投下していきます。その結果、政府系企業や財閥だけが巨大化しがちになり、他の産業、企業が育ちにくくなるという問題が生じます。日本に非政府系、非財閥系の民間企業が多数育ったのは、渋沢が実業界をある意味で設計し、運用したからです。

渋沢は、様々な産業に、フランスで学んだ「株式会社」を作りました。今でいうエンジェル投資家のように、多数の株式会社の設立に関わり、私財を投じて自らも株主となり、自らもプレーヤーとして経営に携わりました。その数、約500社にも及びます。そして、それにもかかわらず、彼は自分の財閥を作りませんでした。

同時に渋沢は、近代的な銀行も作りました。質入れしてその価値の分だけお金を借りるのではなく、人が信用によってお金を預け、企業が信用によってお金を借りる。それにより経済が回っていく仕組みを作ったのです。さらに証券取引所を作り、一般の人が企業に投資し、企業がその資本を基に事業を拡大し、利益を投資家に還元する仕組みも作りました。渋沢はまさしく「日本の資本主義の父」「実業界の父」と呼ばれる役割を果たしていきました。