38歳で提出した辞表

鈴木修はUSスズキの責任者を2年間務めたが、同社は10億円を超える赤字に陥った。

永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)
永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)

「赤字は悪」とは、販売店に対して鈴木修がよく口にしていた言葉だが、USスズキでの経験が原体験となっていたのかもしれない。

67年末には常務になったものの、68年3月に帰国の辞令を受ける。浜松に帰ると、赤字の責任を取るため鈴木實治郎専務に辞表を提出した。「社長になれないかも……」どころではない、スズキを去ろうとしたのだ。このとき鈴木修は38歳。

最終的に、辞表は「預かり」となり、退職には至らなかった。が、東京駐在を命じられる。明らかな左遷だった。仕事をさせてもらえない暇な状況となった。当時の東京支店は新宿区大京町にあったが、鈴木修は逆境の中で時にパチンコに興じながらも、新たな人脈づくりに動き出していく。持ち前のユーモアと明るさを持って。