将来の社長候補のはずが、“厄介払い”される
「出る杭は打たれる」のは、どこの組織でもよくあること。社長の娘婿、将来の社長候補であっても、例外ではなかった。
急進的な改革を断行する鈴木修は、「社内のさまざまな人たちに煙たがられて、体よくアメリカ駐在に厄介払いされる」(鈴木修著『俺は、中小企業のおやじ』)。
マン島TTレースで優勝した翌年の1963年、米市場でオートバイを販売する目的でUSスズキが、ロサンゼルス近郊のアナハイムに設立される。鈴木修自身が発した「海外ビジネスを、商社に頼らず、自前でやるべき」とする意見も設立のきっかけとなった。しかし、英語が不如意の自身が駐在するとは、夢想だにしていなかったようだ。
1966年1月、取締役輸出部長に就任した鈴木修は、USスズキ社長としてアナハイムに単身赴任する。
ここで、塗炭の苦しみを味わう。250㏄のオートバイ「X6」を輸出して販売したところ、最初はよく売れた。ところが、1年ほど経過すると、販売したバイクの大半が故障してしまい、クレームと返品が押し寄せてしまう。アメリカ人はギアチェンジのやり方が乱暴なため、想定以上の負荷が歯車にかかり、やがては歯が欠けていったのだ。無償で修理するのだが、コストはひたすら嵩み、USスズキは赤字が膨らんでいった。
さらに、「アメリカ市場の主流である4ストロークエンジン搭載のバイクを作ってほしい」、と鈴木修が本社に訴えても聞いてはもらえなかった。そればかりか、2ストロークの500㏄のオートバイを売るようにと、本社は押しつけてきたのだ。
マン島レース優勝という成功体験から、会社は抜けられないでいた。変わることができずにいた、と表現した方が正確だろう。
「本社が現場を知らないと、うまくはいかない」と現場にいた鈴木修はつくづく思ったが、どうすることもできなかった。一方で、経営者になってからの、彼の現場主義は、こうした苦い経験から育まれていった。
「俺は社長には、なれんかもしれない」
窮地に立たされた鈴木修のもとを、秋田スズキ創業者の石黒佐喜男をはじめ東北地方の副代理店経営者が、総勢10人ほどで訪れる。
「困っている修さんの慰問に行った、と父は話してました」(佐喜男の長男である石黒寿佐夫・秋田スズキ会長)。
アナハイムのUSスズキから50kmも離れたロスのレストランまで移動して、みんなで食事やワインを楽しんだ。その宴席の場で、鈴木修は石黒佐喜男にボソッと話す。
「俺は社長には、なれんかもしれない」、と。
石黒佐喜男と鈴木修は、ともに宝塚の海軍航空隊にいた。面識はなかったが、絆も関係も深かった。佐喜男がスズキの秋田県総代理店になり「スズライト」の販売を始めたのは1959年。以来、「秋田の田舎者」、「岐阜の山猿」などと言い合える仲になっていった。
しかもこのときには、太平洋を渡り、遙々カリフォルニアまで来てくれたのだ。1960年代後半は、いまのように簡単に渡航できる時代でもなかったのに。そんな佐喜男に対して、鈴木修は本音を吐露したのだった。
