世界一周の旅へ

1962年1月に生産本部長になると、工場建設の論功行賞的な意味合いから、鈴木修は世界一周の旅に出る。6月に出発。まずは、二輪車レースの最高峰といわれたイギリス・マン島のツーリスト・トロフィー(TT)レースに立ち会う。参戦していたスズキは、50㏄クラスのレースで何と初優勝を遂げたのだ。

レース結果からも、鈴木修は「(運を)持っている」と言わざるを得ないだろう。

ちなみに、同じレースにホンダも参戦していて、日本勢は3位までを独占したそうだ。何より、スズキはホンダに勝ったのである。

もっとも、このときの成功体験は、やがて訪れる危機の萌芽となっていく。スズキは2ストロークエンジンを採用していて、「もはや時代遅れ」と言われた2ストロークが勝ったのは24年ぶりとのこと。「2ストロークでもやれる」という自信につながった一方で、4ストロークへの転換が進まない結果を招く。特に四輪で、スズキ存亡の危機が、後に詳述する1970年代に訪れることになる。

しかし、このときには、チームも鈴木修も初勝利に酔いしれていた。

なお、エンジンの一連の動作をサイクルと呼ぶ。このため、2ストロークならば「2ストローク1サイクルエンジン」と呼ぶのが正しいだろう。だが、一般には2ストロークエンジンは2サイクルエンジンと同義に使われる。なぜか、二輪ではストローク、四輪ではサイクルと呼ぶ。

マン島TTレースの後も、鈴木修はチームに随行。オランダや西ドイツ、ベルギーなどを転戦し、最終のアルゼンチンでは鈴木修が監督代行を務めて優勝した。こうして欧州各地から南米を回る、世界一周を経験する。

転戦後の10月、フロリダ州に立ち寄ったとき、キューバ危機が発生するという緊迫の場面にも遭遇する。この旅が、鈴木修にとっては世界との最初の接点だった。

30代の娘婿の改革に販売代理店は反発

翌63年1月に購買部長、そして同年11月には取締役に就任する。このとき33歳。「将来の社長候補」として順調に出世の階段を上っていく。

第一回の東京オリンピックがあった1964年、鈴木修は取締役営業本部長になる。

すると、販売代理店との取引を安全かつ円滑に行うため、「商品の売掛金にはきちんと担保や保証金を販売店から取る」形に切り替える。それまでは、手形一枚で車やオートバイを卸して、スズキが回収に窮する場面も少なくなかったのだ。

変更に対し、多くの代理店は反発した。「催促なしの、あるとき払い」のような緩い取引が消えてしまったからだ。