会社が倒産する理由を熟知していた

代理店の中には、鈴木修を飛び越えて、俊三社長や鈴木實治郎専務に直訴する向きもあった。

「娘婿はひどい。何とかしてください」と。

俊三社長は技術者出身であり、代金回収や手形には疎かったとされる。

ホンダを創業した天才技術者の本田宗一郎も同じで、商品は売れているのに、会社の金庫には金がない状態に創業期は頻繁に陥っていた(ホンダの場合、もう一人の創業者である藤沢武夫が経営を担うようになって、正常な取引が実行されていく)。

この点、銀行員だった鈴木修は違った。売掛金の未回収が重なってキャッシュが枯渇すると、会社がどうなってしまうのかを、イヤというほど知っていた。会社が倒産するのは、借金が膨らむからではない。資金がショートして、支払いが不能になるからである。

担保を設定できない代理店は多く、そうした会社に対しては鈴木修は営業権を買い取っていった。メーカーであるスズキ直営に変えていったのである。代理店の資産を精査し買収金額を決め、さらには経営者の退職金まで用意したそうだ。

全国を飛び回って築いた販売体制

スズキの直営代理店はそれまでは一軒もなかったのだが、現在では47都道府県のほとんどがメーカー直営の販社(代理店)になっている。スズキの資本が入らないプロパーなのは、秋田スズキなど3社となった。

代理店は、業販店に車両を卸す。業販店はスズキ以外の車も、販売するケースは多い。販売台数の多い業販店は、副代理店と呼ばれる。副代理店の中でもさらに販売台数が多いと、「アリーナ店」に昇格し商品を安く仕入れられる。

買収した販売代理店には、30歳前後の若いスズキ社員を経営者として、鈴木修は送り込んだ。ちなみに、プロパーも含め代理店はみなアリーナ店であり、卸だけではなくショールームを設けて車を一般客に販売している。「同じお客さんを、アリーナ店と業販店が競合した場合は、業販店が優先されます」(スズキ関係者)。前述したが、スズキの場合は業販店の売上比率が、いまでも6割と高い。

鈴木修は、営業権を買い取る交渉のために全国を飛び回っていた。並行してその地域の業販店も訪れて、人間関係と販売体制とを強化していった。