近松門左衛門『曽根崎心中』などの影響で心中事件が“流行”

享保きょうほ年間(1716〜1736)に至って「流行」と形容される観を呈するのでした。心中が社会問題に発展したことにより、徳川幕府は対策を講じます。それが8代将軍・徳川吉宗の時でした。吉宗は享保7年(1722)、心中に関わる狂言や絵草子を禁止、それのみならず「心中法度」を制定し、心中に対し厳格な姿勢を示すのです。

まず、心中という用語自体を排除しようとします。それは「心中」という用語は「忠を2つに割って、上下の字を入れ替えると心中となるから怪しからん」ということのようですが、心中という言葉が流行し、心中が増加する中でそれを食い止めたいという想いの発露と言えるでしょうか。権力側は心中との言葉を排除しますが、新たな言葉を案出します。それが「相対死あいたいじに」でした。

「心中法度」は「不義にて相対死」した男女の「死骸取捨て」、「弔(葬式)をなすまじく候」とします。そして心中した一方が存命した場合はその人間を「下手人」(殺人犯)とし、双方が存命した時は「三日さらし、非人手下(非人の配下)」とするとしたのでした。以上、見てきたことで分かるように「心中法度」は心中を罪としたのです。「心中法度」の制定によって心中は減った面もありますが、当然なくなったわけではありません。男女の愛情は完全に法律でどうこうできる問題でもないということでしょう。