4人の「皇族将軍」を各地の征討のために派遣

卑弥呼・台与時代の事績は10代崇神天皇に集約されたことを前述したが、『日本書紀』の記述では崇神天皇は神聖王という以外に執政王としての顔も持つ。モモソヒメの神懸かりと三輪山へのオオモノヌシの祭祀ののち、『日本書紀』崇神天皇5年条には、崇神天皇が4人の皇族将軍を各地の征討のために派遣している。7代孝霊天皇の皇子・キビツヒコは西海道(吉備)、8代孝元天皇の皇子・オオヒコは東海道(東海地方)、その子のタケヌナカワワケは東海道(東海地方)、9代開化天皇の孫・タニハノミチヌシは丹波道(タニハ)をそれぞれ担当した。四道将軍は7代から9代までの天皇の皇子や孫であり、4世代の幅がある。このことも倭王権時代の事績が崇神天皇に集約されていることがうかがえる。

四道将軍の派遣先は、倭王権時代からの勢力範囲であり、有力な地方勢力がいたエリアである。桜井茶臼山古墳の被葬者は、全国からさまざまな物資を集積し、威信財などの国産化を進めたが、こうした人物像は四道将軍の派遣に重なる。